パパからもらった、ちいさなほとけさま
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記事:吉兼千陽(ライティング・ゼミ)
「これ、持っとけ」
いつものように、ぶっきらぼうともいえる口調でパパが言った。手にはちいさな、和柄の袋。受け取ってみると、薄いちりめんの生地を通して、何か細くてゴツゴツしたものが入っているのがわかる。開けてみると、中から出てきたのは木彫りのほとけさまだった。なにこれ? という顔をして見上げた私に、パパは一枚の紙を手渡した。
その紙は失くしてしまって、今私の手元にはない。だから詳しいことはわからないのだけれど、東日本大震災の被災者の方のために彫られたほとけさまだったと記憶している。心苦しい日々の中で、このほとけさまを握ることで心のやすらぎを得られるように。みんながほとけさまを通してつながりを感じられるように。ちいさな、てのひらサイズの「握り仏」。おじいちゃんが、仏壇の前で家族のために祈るような、やさしい微笑み。
それは沖縄・那覇のとあるゲストハウスのロビーでのことだった。2012年3月のことである。私はそこに合計1か月ほどは滞在していただろうか。1月末に沖縄に降り立った私は、そこを拠点として沖縄をぶらぶらと旅していた。その頃私は二十歳になったばかりで、将来に夢も希望も見いだすことができず、屈折した感情をもてあましていた。進路が決まらないまま高校を卒業して浪人生になったけれど、高校を離れてみたら大学に行きたいわけでは全然なかったことに気付いた。高校生の時は、いい大学に入っていい会社に就職するのが唯一の道だと信じていた。私は勉強が得意だったから、先生たちもそれを期待した。私は幼い頃から人の期待というものにやけに過敏で、だれかの期待を裏切ってがっかりさせることを何より恐れていた。「ダメな人間」という烙印を捺されて、見放されることが怖かった。当時、私の価値はだれかの期待にこたえることではじめて認められた。そうすることで私が、自分自身に価値を認めることができたのだ。そして高校生の私に周囲が期待することは、勉強ができること。定期テストで毎回上位10位以内に入り、模試で難関大学のA判定をもらい、そこに合格すること。だから高校3年の夏休み、「夏は受験の天王山だ! とにかく勉強しろおお!」と吠える担任に従って、私は何の疑問も抱かず1日10時間以上勉強した。夏休み前に配られた、一日一日の行動を記入するための用紙。毎日、大半が「勉強」の文字で埋められた。でも、9月。勉強漬けの夏休みを乗り越えた、ある日。突然勉強することができなくなった。机の前で固まる私。手も、頭もまったく動かなかった。なんでなんでなんで? いま勉強しないと受からない。あの大学に行くためには、もっと勉強しなくちゃいけない。なのに、どうして……? 心が焦れば焦るほど、身体は思うように動いてくれなかった。模試の成績も下がって、D・E判定が増えていく。次第に眠れなくなって、ごはんも喉を通らなくなった。布団から起き上がることができなくなって、学校にも行けなくなった。そして私は、受験を諦めた。生まれてはじめて、周囲の期待に応えることができなかった。「ダメな人間」という烙印が、ぼん、と捺されたような気がした。
高校を卒業して予備校にも入らず、いざひとりになってみたら、大学に行きたかったのは周囲が私にそれを期待していたからだということに気付いた。そしてそんなこと、もうだれも私に期待しなかった。受験できなかった、挫けてしまった弱い私。高校の先生たちも、現役で合格できなかった私にもう期待などしなかった。やっぱり私は「ダメな人間」だ。
その後はもう、何をやってもダメだった。失敗を繰り返しては、自分の弱さにうんざりした。だから将来に対して希望なんてなかった。どうせダメで弱っちい私にはなんにもできない。
でもあるとき、開き直った。どうせダメならダメなりに、好きなことをしよう。どうせ誰も期待なんてしないのだから。当時の私にはやりたいことが、ひとつだけあった。旅だ。日常のしがらみから解放されて、私のことを誰も知らない土地を放浪する。ずっと、そんな旅に憧れていた。ただの憧れにすぎなかったそれを、この際だからやってみようと思った。アルバイトでお金を貯めて、片道の飛行機のチケットを買った。行き先は、沖縄だ。
沖縄には、高校のときの修学旅行で一度訪れていた。そのときは自由行動もあまりなくて、物足りない気持ちが残っていた。それに、三泊四日の修学旅行で私はすっかり沖縄の虜になっていた。南国の空気、濃い緑。エメラルドブルーの海。もう一度、あの海が見たいと思った。
那覇で最初に泊まったゲストハウスで出会ったのが、パパだった。パパはそこに住んでいた。いつから住んでいたのかはよく知らない。本名も、年齢も知らない。たぶん、60代。震災のあと、福島からやってきたと聞いた。みんな、パパと呼んでいた。沖縄のゲストハウスには長逗留している人がたくさんいて、パパもそのひとり。そして、私も。
那覇の裏路地沿いにあるそのゲストハウスはとても居心地がよかった。お世辞にも寝心地がよかったとは言えないのだけれど、とても明るくて、あたたかくて。通りに面したロビー(といっても丸椅子とテーブルがおいてあるだけ)にはいつも誰かがいて、夜になると旅人も地元の人もまぜこぜになって、ビール片手に鍋を囲んだりした。オーナーはYさんという女性で、ビールが大好きで、よく笑う楽しい人だった。彼女を慕って、毎晩たくさんの人が集まった。だれでも、自然にそこにいることができた。年齢も、立場もそこでは関係ない。だれも気にしなかった。だれも、私が勉強が得意で、なのに受験で挫折した「ダメな人間」であることを知らない。
だから彼らは、そのときそこにいる私という人間を、何の先入観もなく見つめ、そして受け入れてくれた。私はそのことが嬉しくて、長い間そこにいた。
パパはだいたいいつでもそのゲストハウスにいて、洗濯をしたり、布団を干したりといった宿の仕事もしていた。Yさんがいないときは、かわりに受付の番もしていた。洗濯機の使い方がわからず困っていた私に、使い方を教えてくれた。私の傘が壊れてしまったときは、黒くて大きな折りたたみ傘をくれた。
パパは比較的体格が良くて、あんまり笑顔を見せることはなかったような気がする。だから最初はちょっとこわい。でもロビーの丸椅子に座って、出かけていた私たちが帰ってくると「おかえり」と言って(笑わないけど)あたたかく迎えてくれるパパに、みんな少しずつ心を開いていく。毎日顔を合わせても深い話をすることはなかったし、あいかわらず互いの素性についても知らないままだったけれど、パパは私のことを名前の呼び捨てで呼んであれこれ気にかけてくれて、本当にお父さんのようだった。パパは、みんなのお父さんだった。オーナーYさんの、私たち旅人の、似顔絵描きのお兄さんの、路上詩人の、書道家の、数学の先生の、演奏家の、そこに集まるみんなのお父さんだった。決して人当たりがいいわけではない。でも、不思議な包容力がパパにはあって、みんなパパのことが好きだった。
そう、ここにはいろんな人がいた。ダイビングのライセンスを取りにきた女の子、就活のためにスーツ持参でやってきた女の子、本州から移住してきた学校の先生、国際通りで似顔絵を描いているお兄さん、鼻笛を教えてくれるサロッド弾きのお兄さん、紅型作家のお姉さん……共通点といえば、沖縄が好きなことくらいだろうか。沖縄の言葉でいえば、まさに「ちゃんぷるー」だ。まぜこぜで、おいしい。
そんな「ちゃんぷるー」な人たちと一緒に笑って、毎日のように海を見に行って、ぼおっとして。かたくなだった私の心も次第にほぐれていった。
私はそれまで「学校」という世界しか知らなかった。それが世界のすべてだと信じていた。そこでは勉強ができるということが正義で、大学経由正社員行きというレールが敷かれていた。私はそこでうまくやっていた。うまくやっていたはずなのに、私はそこから脱線してしまった。そんな私に、もう居場所なんてないと思っていた。もう世界から見放された、そう思っていた。でも。
「学校」だけが世界じゃないんだ。そんな当たり前のことに、今まで気付かなかった。
私は本当にバカだった。私は確かに挫折した。弱い。でも決して「ダメな人間」なんかじゃない。私はただ、たまたま目の前に敷かれていたレールから外れただけなのだ。「学校」という列車から降りただけなのだ。そのレールはよく整備されて、列車はとても乗り心地がよかった。けれど、私はそこから降りて、脇道を歩くことになった。ただそれだけ。進むスピードは落ちたけれど、かわりに周りの景色がよく見えるようになった。そうしたら、世界はとても広かった。たくさんの小さな道があるのが見えた。レールの上だけが進む道ではなかったのだ。
もしかしたら、私は「学校」という列車に乗ってカーテンを引いて周りの世界を見えなくして、その中で認められようと、居場所を保とうともがいていただけなのかもしれない。一度外に出てみたら、楽しそうにうれしそうに歩いている人たちに、たくさん出会うことができた。世界はもっととっても広かった。
同級生の多くは、大学入試という駅を経て「大学」という列車に乗った。私はその駅にたどり着く前に降りてしまった。だから次の列車に乗れなかった。ただそれだけ。失敗ばかりだからって「ダメな人間」なんかじゃない。列車を降りてはじめて歩いた見知らぬ道を、スムーズに進めるわけがないじゃないか。自分に「ダメな人間」という烙印を捺したのは、他でもない、私だ。私が、私に呪いをかけたのだ。「ダメな人間」であるという呪いを。
そんなある日、パパがほとけさまをくれた。ちいさな握り仏。最初はやさしいおじいちゃんみたいなお顔をしていると思ったけれど、やっぱり生まれたばかりの赤ん坊のようにも見える。パパがどうして私にこれをくれたのかわからないけれど、もしかしたら私は赤ん坊のような顔をしていたのかもしれない。新しく出会う世界に目を見開いて、きょときょとしているように見えたのかもしれない。それとも、パパはもしかして、自分に呪いをかけている私に、気付いていたのかもしれない。
ねぇパパ、どうして私にこれをくれたの?
3月が終わり、4月になった。2か月の滞在を経て、私は沖縄を離れた。わたしはその後英語の学校に行き、アルバイトをして、海外を旅した。少しずつ、自分にかけた呪いをといていった。そうしたら毎日が楽しくなって、「学びたい」という気持ちが自然と湧いてきて、進学を決めた。もう一度、列車に乗ることを決めた。大学という列車に乗って、その箱に守られ、導かれて。学んで、失敗して、立ち直って、恋をして、がむしゃらに学んで。そして今、大学3年生。次の駅がもうすぐそこに見えている。
私は迷っている。次は、どの列車に乗ろうか。乗れるのか。それとも、列車を降りて歩くのか。
大学に入ってからも、何度も自分に呪いをかけそうになった。ああ私はやっぱり「ダメな人間」なのだと、何をやってもダメなのだと。そんなとき、私はパパにもらったほとけさまを、ぎゅっと握る。沖縄の海が、まぶたの裏によみがえる。私をそのまま、まるごと受け入れてくれた沖縄の人たちを思い出す。あのときのつながりを、感じる。
そして進路に悩む今、私はまた、ほとけさまを握る。自由に生きる、沖縄のみんなの笑顔を思い出す。たとえ失敗したって、大丈夫。この世界がすべてじゃない。そのことを、思い出させてくれる。
このほとけさまは、もしかしたらパパが、被災者のひとりとして受け取ったものだったのかもしれない。パパに何があって、どうして沖縄にいたのか私は知らないけれど。もしかすると、パパは結構しんどい状況にいたのかもしれない。けれどパパは、このほとけさまを私にくれた。
パパもあれから少しして沖縄を離れたと、風の便りに聞いた。今はどこでどうしているのか、わからない。私とパパが同じ場所で過ごした期間は、たった1か月。けれど、こうしてほとけさまを握れば、いつでもパパのあたたかさを感じることができる。
ねぇパパ、あなたは今どこで、どうしていますか? 私はあの頃二十歳になったばかりで、将来に希望なんてなくて、ふわふわ漂っているたよりない存在だったかもしれない。でもね、今私はなんとか地に足をつけて立っているよ。あの頃より自分という人間を少しだけ好きになることができたし、小さな未来の目標もできたし、大好きな恋人ができたよ。
もしかしたらもう二度と会うことはないかもしれないけど、パパにもらったほとけさま、それから、黒い折りたたみ傘も。ずっと大事に持っています。あの「ちゃんぷるー」な人たちみんなを包み込んでそこにいた、みんなのパパ。
あのとき、お別れのとき。きちんと私の気持ちを伝えることができていたかな?
パパ、ありがとう。あの時、そばにいてくれて、私のことを見ていてくれて、ありがとう。
苦しいときはこのほとけさまを握って、しっかり歩いていくから。だから心配しないで。パパも元気で暮らしていることを、祈っています。
このちいさなほとけさまは、私の生きるお守りです。
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