稼げなくて、世間にも言えなくて、この先結婚もできない恋人と12年も一緒にいる理由。《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:安達美和(プロフェッショナル・ゼミ)
ハッキリ言って、苛立っていた。
なんてタイミングが悪いヤツなんだろう。
さっきLINEで確認した、「たすけて……」の文字の「……」が妙にムカついた。
助手席に乗せた食材でパンパンのスーパーの袋が、車の振動でガサガサ鳴るのもうっとうしい。
ちょうどタイミング悪く、わたしのところで踏切が鳴り出した。もうすぐ家なのに。
カンカンカンカン。
うるさいな。まったくうるさい。大きくて丸い明かりが点滅をくり返す。黄色と黒のシマになった踏切棒さえ、不安をあおってきてイヤだった。ハンドルを指先でトントン叩く。無意識のうちに指を口へ持って行ったが、すぐにおろした。32歳にもなって爪噛み癖が治らないのはよろしくないと、やっと思えるようになった。
本当であれば、仕事が早めに片付いた今夜は、このままジムへ行って上半身を鍛えるつもりでいた。背中とお腹を重点的に鍛えて、ランニングマシーンで最低5キロは走る予定だった。終わったら、納豆とマグロと卵黄が入ったものをかっこんで、〆切の迫った記事を書くつもりだった。そして、明日は後輩ふたりがうちまで会いに来てくれるから、部屋を片付けておやつを準備して……。
そこまで考えた時、スマホがわたしを呼んだ。LINEがきている。会社のパソコンを叩きながら、チラっと画面に目を落とした。
冒頭に、ごめんなさい、と書いてあった。その後の、風邪、うどん、薬、アクエリアス、などという文字も断片的だが目に入った。すぐに画面は暗くなったが、思わず眉根にシワが寄る。大丈夫かな、よりも前に、勘弁してくれよと思った自分は、確かに冷たい。でも、思ってしまったものはしょうがない。
予定を全て変更し、行き先はジムから近所のスーパーになった。頼まれたものをカゴへ乱暴に放り込んだ。ふと気がついて、生理用品も手に取る。もしかしたら、必要かもしれない。
車を走らせながら、自分がまだ怒っていることに気がついた。今日のことがなかったとしても、近ごろ機嫌は良くなかった。仕事は順調だし、体重も落ちている。だけどわたしはふて腐れていた。原因は、タイミング悪く風邪を引き、いま家で寝ているわたしの恋人にある。
わたしは現在同棲している恋人と、特殊な契約を結んでいる。昨年話題になったドラマに「逃げる恥だが役に立つ」があるが、あの作品内にも出てきた契約だ。
家事に対して給与が発生する、というあれである。
あのドラマに出てくる平匡とみくりは、雇用関係としての夫婦という形を取っていたが、わたしたちは逆である。最初から恋人関係で、その後、雇用の関係がそこにプラスされた。
わたしの恋人は、稼げない。それもそのはず、まだ学生だからだ。勉学でとっても忙しい人だから、バイトの時間が取れないのだ。だから、一緒に暮らすことで経費を抑え、その代わり恋人が家事を請け負うことでお給料を渡すという寸法である。といっても、別に極端に年下というわけじゃない。むしろ、向こうのほうが2個上だ。付き合いはだいぶ長い。途中、何度か別れながらも、わたしがハタチの頃からもう12年も付き合っている。
恋人は後期試験と実習を無事に終え、その後休みに入った途端に体調を崩した。なぜか、休みの合間に挟まれるボランティア実習の時には不思議と回復して、それが終わるとまだ寝込む。となると当然、家事の方はおろそかになる。ちなみに、生活費はわたしが7割負担している。そして、実際には、家事をやった・やらないに関わらず、毎月決めたお給料を渡している。こころが狭いとは承知の上だが、わたしはどうしても、こころの中で叫んでしまう。
お前、家事の対価として給料もらってんじゃねーのかよ!
やってねーじゃん、家事!
と思うだけでいいのに、我慢がきかない。一瞬怒りをこらえるのだが、すぐに器がいっぱいになってしまって、こぼれる。その度に恋人は、ごめんね、僕が悪かったよ、と素直に謝る。風邪をひこうが睡眠時間が少なかろうが、常に桃色の頬が憎たらしい。口を開くと前歯が覗く。眉尻を下げた情けなさそうな顔は、「北の国から」に出てくる純に似ている。俳優さんの名前はたしか吉岡秀隆さんといったか。あの人も、「北の国から」でも「男はつらいよ」でも、男なんだかシャンとせんかい! と叫びたくなる役柄を演じていた。
男のくせに……! と恋人に暴言を吐きたい衝動に駆られたことは、情けない話だがけっこうある。しかし、いつもそう吐き捨てる前に、この暴言はまったく意味をなさないことに気がついて、さすがにぐっとこらえるようにしている。実際、まったく無意味なのだ、この手の挑発は。ややこしい人と恋人になったものだと我ながら思う。
そもそも、わたしの恋人は男ではないのだから。
たしか、何シリーズ目かの「3年B組 金八先生」だったろうか。当時、上戸彩がデビューしたての頃だったと記憶している。わたしはめったにドラマを観ないタイプだったが、この時の「金八先生」に限っては、なぜかぼんやりと観ていた。なにかが琴線に触れたのだと思う。毎回、個性的な生徒が出てきて、それは大抵は複雑な問題を抱えた子供たちばかりだった。長く続いているドラマだからだろうか、生徒の抱える悩みには時代が映し出されていて、「金八先生」をきっかけに社会問題に気づくということも少なからずあった。
上戸彩が演じた生徒は、ショートヘアに刃物のような目をしていた。そして、女子生徒の制服ではなく詰襟を着ていた。
その時、「性同一性障害」という言葉を初めて知った。身体が女性で、中身が男性。その逆も、もちろんある。さらには、そのどちらでもない人もけっこういるらしい。その時は、難儀だなぁとしか思わなかった。このドラマから4年後だった。今の恋人ができたのは。
重いスーパーの袋を抱えて階段を登り、アパートのドアを開けた。3間続きのこの部屋で我々はふたり暮らしをしている。もう1年半が経つ。部屋の中は暗かった。ベランダに干していた洗濯物は、多分取り込まれていないだろう。
枕元へ寄って、ただいま、と声をかけると、恋人はおかえり、と囁くみたいに言った。喉がつらいらしい。額に触るといつも以上に熱かった。たった一枚だけ残っていた冷却シートを貼ってあげると、恋人は、へええ、と変なため息を漏らした。そしてすぐに、生理になった、と弱々しくつぶやいた。
やっぱりか。さっきスーパーで気がついて良かった。我が家の生理用品の減るスピードは早い。恋人はわたしよりもずっと生理痛が重い。風邪とのダブルパンチは相当きついだろう。かわいそうに。
茶碗蒸しとうどん、どっちが良い? と尋ねると、茶碗蒸しという答えだった。
内心、チッ、と思った。茶碗蒸しの方が手間がかかるのだ。
たまごを溶きながら考えた。
わたし達が恋人関係であると知っている人は、多くない。古くからの友人には知っているひともいるが、基本的には秘密にしている。デリケートな問題だし、このことを聞かされたら、みんな各々の「常識」と向き合わざるを得ない。今まで仲良くしていた人たちが離れていくのはつらい。だから、恋人が風邪を引いたり、そうでなくてもわたしの助けが必要になったりした時、わたしはおおっぴらにそのことを他人には話せない。恋人が大変だから、この集まりには出られませんとは、言えない。試しに言ったこともあるが、そうすると、どんな恋人なのか、なぜ結婚しないのかと質問責めにされて、ちょっぴり泣きそうになりながら曖昧に笑うしかなくなるからだ。
稼げなくて、世間にも言えなくて、このさき結婚もできない恋人だ。なのに、結局12年も一緒にいる。なぜだろう。
どんぶりに並々の茶碗蒸しをテーブルへ運ぶ。大きなスプーンも一緒に。
恋人は黒縁メガネを片手に、よろよろと食卓へやってきた。無言でスプーンを渡すと、消え入りそうな声で、ありがとうとつぶやき、茶碗蒸しをひとさじすくった。椎茸と鳥のささみから湯気が立つ。と、その途端額に貼っていた冷却シートが茶碗蒸しの上にべしゃっと、落ちた。恋人が、あわわ、と言った。わたしは真顔でそれを見ていた。
なんでこのタイミングで風邪なんか引くんですか、と思わず言ったら、恋人はごめんね、と謝った。ああ、病人にこんなひどいことを、と思ったが、わたしは怒りを溜め込むとかえって後々引きずるタイプなので、遠慮なく言わせてもらうことにした。我々は元々、先輩後輩の間柄だが、付き合いが長くなってからは怒った時のみ敬語になる癖がついた。
「先輩、わたし今日はジムへ行こうと思ってたんです」
「うん」
「明日、後輩が来るのに、先輩が寝込んじゃったら呼べないじゃないですか」
「ごめんね」
「どんなタイミングでお風邪をお召しになってるんですか」
「ごめんね、タイミング悪くて」
言っているうちに、気分が治まってきた。理不尽だと思う、我がことながら。風邪を引いたのはこの人のせいではない。分かっている。でも、恋人はどんなに理不尽なことでわたしが怒っても、絶対に受け止めてくれる。
いつものように確認する。わたしがこの人と12年も一緒にいる理由。
まだ20代前半だったわたしは、恋人にこうお願いしたのだ。これだけは約束して、と。
わたしが何をしても絶対に怒らないで。
家庭環境が厳しかったせいか、わたしは自分の感情を表に出すことを許されていなかった。だから、自分には怒りの感情なんてものはなかったと思い込んでいた。違った。大人になって、自由になってから思い知った。わたしの身体にどれだけの怒りが溜まっていたのかを。わたしは、わたしの怒りを誰かに受け止めてほしかった。わたしはこんなに怒っているぞ、と。
恋人はしごくあっさり、いいよ、と答えてくれた。
そして、その約束を今の今までずっと守ってくれている。
空になったどんぶりを流し台へ片付けていると、恋人が居間から話しかけてきた。
「ありがとう。約束守ってくれて」
え。約束? 何の約束だ。思わず振り返って恋人の顔を覗き込んだ。顔に赤みが戻って、いつものこの人に戻りつつあった。
「ずっと守ってくれてるじゃない。僕との約束」
恋人が愛しそうにこちらを見ていた。その視線はとても優しくて胸のあたりが暖かくなったが、残念なことにその「約束」をわたしは覚えていない。ここは思い切って聞いてみたほうが良いだろう。
「約束って、なんだっけ」
「覚えてないの?」
「すまん、さっぱり」
恋人は一瞬呆れたが、今回も怒らないでいてくれた。その様子からかなり大切な約束らしいと分かった。それを忘れたわたしを、この人は許してくれている。だから、わたしはこの人から離れられない。
「きみが、『何をしても怒らないで』って僕に言ったのは覚えてるよね?」
覚えてるも何も、いま正にそのことを考えていたところだ。
「その後、じゃあ僕も約束してって言ったのは覚えてる?」
……大変申し訳ないが、さっぱり覚えていない。わたしが黙っていると、恋人が教えてくれた。その約束を聞いた時、我々は、なんだかんだでこの先もずっと一緒にいることになるんじゃないだろうか、と思った。
恋人は布団へ戻り、やがて、寝息が聞こえてきた。少し回復してきたとは言え、やっぱり長時間起きているのは辛かったらしい。使い古したえんじ色の毛布がわずかに上下している。
この記事を書きながら、この人と過ごした12年あまりを思い浮かべて、なんだか泣けた。そして、わたしが恋人とその昔に結んだという約束も。
ねえ、わたしが何をしても絶対に怒らないで。約束して。
わかった。じゃあきみも僕と約束して。
なにを?
その時のことなんかすっかり忘れていたくせに、さっき恋人にその約束の中身を聞かされた途端、脳内に鮮明な絵が浮かんだ。今よりもずっと若い恋人の、真っ黒なくせっ毛。奥二重の目。なんだか知らないけどいつも桃色の頬。そして、八重歯。小憎たらしくて可愛い、八重歯。恋人はその八重歯を見せてこう言った。
「どんなに怒ってもいいから、ずっと僕と一緒にいて」
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