あの一言が聞けたから、もう一度、信じてみようと思った
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記事:中村 美香(ライティング特講)
「痒いなあ……」
ボリボリと右腕を掻きながら、しまったと思った。
ああ、また、薬を飲み忘れた。掻いた場所が徐々に赤くなっていく……。
私は、5年前の春に、慢性蕁麻疹になった。
原因は、よくわからない。
原因がわからない蕁麻疹を、特発性蕁麻疹と呼び、そのうち、1ヶ月以内で治まるものを急性、それ以上続くものを、慢性と区別するらしい。
よくわからないなりに、原因を考えてみると、月並みだけど、ストレスかもしれないと思った。
5年前の春は、息子が幼稚園に入園したのと同時に、私が《小学生が解いた答案を添削する内職》を始めた時期だった。
だけど、その新しい生活に慣れても、痒みは治まらなかった。
ストレスというやつは、いつまで経っても、ゼロにはならないのだろうと思った。
5年間のうちに、風邪や他の症状で、皮膚科以外の病院にもお世話になった。
「アレロックを服用しています」
と、アレルギーの症状を抑える薬の常用を、決まり文句のように伝えていた。
「飲み合わせに問題ありません」
と、返されることが多かったけれど、時々、耳鼻科や、形成外科で
「それって、ちゃんと効いてる? 本当に、体に合ってる?」
と、念を押されて、不安になった。
そして、その都度、皮膚科の先生に
「アレロック、ずっと飲んでますけど、大丈夫でしょうか? 他の病院で、薬を変えた方がいいんじゃないか? と言われたんですが……」
と、相談することが重荷だった。
その時、先生は、少し困った顔をしながらも、いつも穏やかな口調で
「痒くない時もあったり、掻いても皮膚が盛り上がらないってことは、薬が効いているからだと思うのよね。どうしても薬を変えたいなら、変えてもいいけれど、これは、結構、効き目が強い薬だから、変えて症状がひどくなることもあるのよね……」
と、言うのだった。
そんな風に言われたら、怖くて、変えることはできない。
「じゃあ、とりあえず、今まで通りでいいです……」
と、結局は、言うしかなかった。
本当に、この薬が効いているのだろうか?
先生を信じ続けていいのだろうか?
結果として、自分でそうしようと決めて通い続けながらも、なんとなく、先生に対して不満を持ちつつ、ぼんやりとした不安も払拭しきれないまま、朝晩のルーチンの中に、アレロックの服用が入り込んでいた。
それはまるで、長い間使っている携帯電話会社や、電力会社を気軽には変えられない感覚に似ていた。
ところが、私は、いつの間にか、薬を飲み忘れることが多くなった。
最初は、前の晩、飲み忘れていたことに、翌朝気づき、慌てて、薬を飲んでいたけれど、そのうち、それすら、カウントしなくなり、痒くなってから、しまった! 飲んでいなかったと、慌てて薬を飲むという感じになっていった。
残りが数粒になった薬の入っている袋に記載されている最終受診日が、10月だったから、ひと月半分を、5ヶ月かけて飲んでいたことになる。
飲まない日もあったし、このまま、飲まなくなってもいいかな? とも思ったけれど、やはり、春先になって、痒くなってしまったのだ。
うーん。どうしよう。
しばらく受診していなかったから、怒られてしまうかな?
「飲んだり飲まなかったりしたら、治るものも治らないですよ!」
と、言われるんじゃないかと妄想し、不安になった。
そうだ! これを機に他の皮膚科に変えちゃおうかな?
一瞬、名案に思えた。
だけど、次の瞬間、ダメだと思った。
それは、新しい皮膚科で、なぜ、病院を変えたのかを、うまく言えないと思ったからだ。
「5年間、薬を飲んでいたけれど、なかなか治らないので、こちらに変えました」
「薬を変えたいと言っても、あまりいい顔をされないから、こちらに変えました」
「初めて、掻いたら赤くなったんです」
いずれにしても、前の皮膚科を悪く言うか、あるいは、嘘をつかないといけないことが、つらくなってしまった。
いっそのこと、病院が潰れてしまわないかな? などと、ひどいことまで考えた。
私には、決断に迷うと、「不可抗力が働いて、ひとつの選択肢しかなくなったら楽になるのに……」と、無責任な思いに囚われてしまう、自分でも情けない癖がある。
うーん。
仕方ない。
とりあえず、怒られてもいいから、今までの皮膚科に行こう!
結局、迷うと、保守的になる確率が高い。
薬が、あと一日でなくなる日に、意を決して、皮膚科に行った。
久しぶりに行った皮膚科は、相変わらず、混雑していた。
そのことに、私は、少なからず、安堵を覚えた。
しばらく待って、名前が呼ばれた。
「失礼します」
と、言いながら、いつもより少し緊張して、診察室に入った。
「はい。こんにちは」
「……お久しぶりです」
「どうですか?」
先生は、変わらず、穏やかな笑顔だった。
「あの……勝手に判断して申し訳ないですが……薬を、飲んだり、飲まなかったりしてたんです。いや、あの、実は、薬を飲み忘れて、なかなか、なくならなかったんです」
椅子に座るか座らないかくらいのタイミングで、前のめりに、私は言った。
多分、怒られると思った。怒られなかったとしても、不機嫌になると思った。
しかし
「いいじゃないですか!」
と、先生は言ったのだ。
「え?」
「忘れるくらいよくなったということだもの。よかったじゃない!」
「あ、なるほど!」
怒るどころか、目の前の先生は、笑顔で喜んでくれていた。
「じゃあ、一応、また45日分出しておきますね。症状が出た時でいいですよ! だいぶ良くなってきてますからね。もう少しですね」
「ありがとうございました! 失礼します」
先生の一言のおかげで、あんなに、気が重かったのに、帰りには、嘘のように、身も心も軽くなっていた。
そっか! 薬を忘れるくらい、よくなったんだ、私!
やるべきことができなかった時、ああ、自分は、ダメなんだ……としか思えなかったけれど、もし、誰に迷惑をかけたわけでもなければ、こんな風に、プラスに考えることができたらいいなと思えた。
そして、それに気づかせてくれた、皮膚科の先生と、アレロックを、もう一度、信じてみようと思った。
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