プロフェッショナル・ゼミ

S婦人の奇怪な行動から見えてきたものは、認めたくない真実だった《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:あおい(プロフェッショナル・ゼミ)

「あっ、しまった……」

ある日の朝、娘を駅まで送り届けたあと、駐車場に車を入れようとしたとき、家の前を通り過ぎようとしていたS婦人と目が合ってしまった。
車の中から軽く会釈しながら、このまま通り過ぎてくれることを祈ったけれど、彼女は私の家の前で足を止め、私が車から降りてくるのを待っていた。
嫌な予感がした。なぜなら彼女は近所でも噂のややこしいおばさまだったから。

私は今から20年前にこの町に引っ越してきたが、それより随分前からS婦人はこの町に住んでいた。S婦人の家は私の家からすぐの道路を隔ててちょうど真向いにある。若い頃インテリア関係の仕事をしていたというだけのことはあって、家の外観はおしゃれなアメリカ郊外のお家を思わせる造りになっており、庭には大きなパラソルと、その昔エマニエル婦人が座っていたような籐でできた大きな椅子が鎮座しているのが木々の間から垣間見える。この付近には似つかわしくない家に住む彼女は、そういう意味でも有名だった。

ちょうど私たちが引っ越してきた頃、まだ若かったS婦人はエネルギーが有り余っていたのだろう。最初の騒動は、隣に住む老夫婦のおうちに、S婦人宛の郵便物が間違って届けられたことがきっかけだった。親切心からS婦人のおうちにその郵便物を届けに行った老夫婦の奥さんは、そこでS婦人からあらぬ疑いをかけられることになる。

S婦人は、その郵便物は間違って届けられたのではなく、老夫婦の奥さんがS婦人のポストから盗んでいったのだと言い始めた。普通に考えてなぜそんなことをする必要があるのか全くわからないし、疑いをかけられた奥さんはたまったもんじゃない。最初は優しく否定していた老夫婦も、何を言っても聞き入れないS婦人の態度に堪忍袋の緒が切れて、ご近所バトルが勃発した。早朝からS婦人の「泥棒!」と叫ぶ声、それに対して反撃する老夫婦。言葉の攻撃ではとどまらず、S婦人は本来なら庭の樹木に水をやるためのものであるところのシャワー式ホースで、隣の老夫婦の家めがけて思い切り放水すると、老夫婦も負けじとホースで応戦する。それだけではなく、老夫婦が泥棒だと言わんばかりの悪口を近所に触れて回り、しまいには、「隣人は泥棒です」と書いた看板を、老夫婦の家との境界である壁にでかでかと張り出すという始末。

もちろん引っ越したばかりの私たちの家にもやってきて、「あの老夫婦は泥棒だから気をつけなさい」と玄関先であることないこと長々と話をする。人の良さそうな老夫婦は本当にお気の毒だと思うのだけれど、下手に手出しをすると今度はこっちが何を言われるかわからないから、黙って嵐が去るのを待つしかない。

そんな険悪な状態が1年ぐらい続いていたのだけれど、老夫婦のご主人が病気になって入院されたことをきっかけにトラブルはおさまり、やれやれと思っていた矢先、次にS婦人のターゲットとなったのは、我が家の長男だった。

長男が小学校低学年のころだったと思う。家の前で友人たちとボール遊びをしていたところ、運悪くそのボールがS婦人宅の庭に入ってしまった。長男は友人たちと一緒にS婦人宅に行き、ボールが入ってしまったことを詫び、ボールを取りに庭に入ってもいいかどうかを確認した。まあ少しぐらい嫌な顔をされても、ボールを返してもらえると思っていた彼らは、それがとても甘かったことに気づいた。どうして道路でボール遊びをしているのか? なぜ公園にいかないのか? 道路がどういう場所なのか知っているのか? 等々S婦人の説教は一時間以上に及んだ。それだけでは留まらず、今度は私の家までやってきて、子どもたちに道路でボール遊びさせるとは何事だ! と私に向かって説教を始めた。

確かにおっしゃるとおり、道路でボール遊びはいけない。それを放置していた私にも責任はある。それは間違いない。けど、だけどね、そんなに恐ろしい顔して、ものすごい剣幕でまくし立てて言うほどのこと? 相手は子供だよ、もう少し優しく言えないか? と思いながらも、やはりどう考えても悪いのはこちらの方、平謝りに謝るしかない。「申し訳ございません、今後このようなことがないよう十分に気をつけます。子供たちも反省しておりますので、どうぞお許し下さい」と丁重に丁重に誤り、子供たちにも再度あやまりに行くように伝えた。

その時の対応がよかったのか、その事件以降、S婦人は手のひらを返したように私たち家族に親切になった。ある春先の日曜日、お昼ごろのことだった。突然ピンポーンとやってきて、「うちの庭でバーベキューするから、子どもさんたちと一緒にいらっしゃいな」と声をかけてきた。一瞬おっ、と怯んだけれど、ここで断るとまたややこしいことになりそうだし、ちょうど昼ご飯も今から作るところだったし、まあいいか、行ってみようと思って子どもたちとお邪魔することにした。

はじめて入るS婦人のお家は、想像したとおりにおしゃれなおうちだった。家具や調度品は全てヨーロッパから取り寄せたらしく、立派なソファの横にはブランデーの並んだサイドボード、一枚板の大きなテーブル、モニュメントのようなライトたちはいつどんなときに使うのか庶民の私には全く謎だったけれど、とにかく高級そうな家具が並んでいた。庭にはエマニエル婦人が座っていた椅子の他にも、見るからに高そうな置物が置かれていた。S婦人がボールの事件であれだけ激しく説教した意味がその時初めてわかった。息子がボールを投げ入れたとき、この置物に当たらなかったことが本当に救いだと思った。

その置物のそばに、一生懸命肉を焼いているS婦人のご主人の姿があった。帽子をかぶり、めがねをかけ、短パンとよれよれのTシャツを着た細身で初老の男性は、S婦人とは違って落ち着いた紳士に見えた。笑顔で私たちを迎え入れてくれた。どんどん食べなさいといって高級な肉を次々と焼いてくれた。

私たちは、ここぞとばかりにたんまりお肉をご馳走になり、ワインをいただき、デザートまで頂戴し、いい気分で帰ろうとしたとき、「これも持って帰りなさい」といって差し出されたのは、四角い箱に入った板チョコ、1ダース分だった。
「私、なんでも気に入ったら箱買いするの。洋服なんかもね、気に入ったら同じものを全色買うのよ。ただ食べ物は賞味期限があるでしょ。だから食べきれないのよ。オタクは子供さん多いから持って帰ってちょうだい」
思いもよらないプレゼントに大喜びの子供たちは、あのおばさん怖いと思っていたけど本当はいい人だよね、と言い始めた。もしかしたら本当はいい人なのかもしれない。あの隣人トラブルも、私たちが勝手に誤解をしていただけなのかもしれない、そんなふうに思ったりしていた。

そのバーベキュー以降、S婦人はことあるたびに私の家にやってきて、箱買いして賞味期限が切れそうになったポテトチップスやらチョコレートやらを持ってくるようになった。それだけなら嬉しい話だ。ところがおいしい話にはやはり裏があった。彼女はそのプレゼントと引き換えに、ご近所の苦情聞き係を私に要求してきたのだ。彼女の話をずっと聞いていてわかったのは、彼女は誰かを悪者にしないと気がすまないということだった。次のターゲットは引越ししてきたばかりの隣人だった。ゴミの捨て方に問題ありだとS婦人は指摘した。私に意見を求めてくる。そんなこと知らんわ、直接本人に話してくれよ、と思うのだけれど、それは言えないから、そうですね、と合わせておくしかない。せっかく彼女に気に入られていい状態を保っているのに、ここでまた嫌われてターゲットになっても困る。なんたってうちには前科があるのだから。黙って聞いておくしかない。そんなことが1年ぐらい続いてもういい加減うんざりしていたのだけれど、あるときからぱったり来なくなった。病気になったのか? 引越ししたのか? そんなことはどうでもいい、来なくなったことで私は平和な生活が取り戻せたことが嬉しかった。できることならこのまま一生会いたくないと思っていた。

そんな矢先に出会ってしまったのだ。家の真ん前で。
嫌な予感がした。

私が駐車場に車を停めると、S婦人は私のほうに向かって歩いてきた。
「お久しぶり、お元気?」
「はい、元気です」
たわいのない挨拶から始まる。

「最近あまりみないけど、あなたどうされてるの?」
私は、ここ数年仕事が忙しいことや、子どもたちも大きくなったことなどを簡単に告げ、当たり障りのない会話をして家に入ろうと思った。ところがS婦人は私を離さなかった。

「ところでお母様はお元気?」
母のこと? 私の母のことなんて、家の前で数回であって立ち話したぐらいで詳しくは知らないはずなのに、今さら何を聞くねんと思ったけれど、「母は元気にしてますよ」と無難に返事をした。

するとS婦人は続けてこういった。「お兄様はお元気?」
はあ? 兄ですか? 確かに兄はいる。いるけれど、私の家に来たことなんて、それこそ
20年のうちで10回あるかないか、しかも墓参りの途中で立ち寄ったぐらいのことで、長時間滞在したこともなければ、S婦人に出会ったこともないはず、なのに彼女は何を言っているんだろう? と思いながら、「はあ、元気にしてますよ」と答えると、彼女は唐突にこんなことを言い始めた。

「いやね、あなたのお母様とお兄様、もう随分と前のことだけれど、家の前で大声でけんかしてたじゃない。だからどうされてるのかなと思って。」

「けんか? 兄と母がけんかですか? そんなことしてませんよ。だいたい兄はこの家にほとんど来たことがないですし」
近所迷惑も顧みず、大声で喧嘩してたのはお前だろう、と言いたい気持ちをぐっとこらえて冷静に答えた。

「あら、あなた知らないのね、あなたのお母様とお兄様、あなたのおうちの前で大喧嘩していたの、近所でも噂だったのよ」

そんなことがあるはずがない。兄はこの家に住んだこともないし、めったに来ないといっているじゃないか。それに、お元気? ってその意味深な聞き方、まるで親子ゲンカがこうじてどうにかなっているのを期待しているかのような言い方じゃないか。何が言いたいんだ、こいつは? そんな気持ちを堪えながら、「それうちじゃなくて、お隣じゃないですか?」と私が答えると、「いえいえ、オタク、オタクのお母様とお兄様」「いや、そんなことはないと思うんですけど」「いえいえ、私この目でみましたもの」
私が違うといっても全く聞き入れる様子もない。

だんだんと腹がたってきた。そんな押し問答をしばらく繰り返しているうちに、とうとう私は堪忍袋の緒が切れた。

「おい、おばはん!! 黙って聞いてたら調子に乗り上がって、あることないことペラペラペラペラ言い上がって。喧嘩なんかしてないって言うてるやろ! だいたいな、喧嘩するようなタマじゃないねん、兄は。お前、人のことばっかり観察して指摘して、自分はどうやねん! 隣のばあさんとずっとバトルして、朝から大声で叫んでどんだけ近所迷惑やったか知ってるんか! このボケ、賞味期限が切れかかったお菓子持ってきて、ベラベラとしょうもない悪口聞かせあがって、気分悪いねん! だいたいな、自分のことばっかり喋って人の話を全然聞かへんやつが私は大嫌いやねん!!!」

ところが、実際に私の口から出た言葉はこれだけだった。
「そんなことはないと思うんですけどね……」

「あら、そうなの、あなた知らないのね。随分昔のことだからね。気になさらないで。お元気ならいいわ。ではまた」それだけ言って彼女は去っていった。

S婦人の後ろ姿を見送りながら、私は呆然と立ち尽くしていた。
な、な、なんなんだ、あいつは。何が言いたいんだ! ムカムカしていた。イライラしていた。突如として私の前に現れ、わけのわからないことを言い残し、去っていった彼女。私を苛立たせ、モヤモヤさせるだけさせておきながら、涼しい顔をして行ってしまった彼女。

彼女の目的は一体なんだったのか? 老夫婦とのトラブルの時にもわからなかったけれど、今回も彼女の目的がさっぱりわからない。もし仮に、私の母と兄が大喧嘩をしていたことが事実だったとしても、それを今私に告げたところでいったいどうなるというのか? ただ私を不快にさせたかっただけなのか? 相手を不快にさせてなにか楽しいことがあるのか?

いや、私のモヤモヤの原因はそれだけではなかった。苛立っている一番の理由は、そんなに腹立たしい思いをしながら、S婦人に対して何も言えなかった自分に対してだった。こんな理不尽な思いをしながらも、争いたくない自分、いい人でいたい自分。この期に及んでそんな思いに支配されている自分が、嫌で情けなくてたまらなかったのだ。

私はいつの間にか、物わかりのいい大人になりすぎていた。怒りの感情を抑え、いつも平静を装い、大人であり続けることが良いことだと思ってきた。ところがS婦人はそうではなかった。言いたいと思ったこと、聞きたいと思ったことを、良いも悪いもなくストレートに口に出す、まるで無邪気な子供のようだ。

これを認めるのはものすごく悔しいし腹立たしい。けれど認めざるを得ない。自分の正義を振りかざし、思ったことを口に出し、周りを振り回しても自分は幸せでいられる、そんなS婦人のことを、本当は羨ましく思っていたのだということを。私は心のどこかで、あんなふうになりたいと密かに思っていたのだということを。

そんなことを考えながら、S婦人の後ろ姿を見送っていたとき、
「もっと言いたいこと言いなさいよ、あなた」
彼女の後ろ姿がそう語っているように見えたのはきっと私だけだと思う。

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