部屋の天井のシミに、未来を重ねて見ていた。さとうコーポ304号室《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:ノリ(プロフェッショナル・ゼミ)
「むんぎゃー!」
その子は、この世で初めての春を迎えようとしていた。
名前はハルト、6ヶ月の男の子。学生時代の友人、ミズキの子供だ。お昼過ぎにミズキ宅へおじゃますると、それまでスヤスヤ寝ていたというハルトくんは、私の存在に驚いたのか、起きて泣きだした。
「わー! ごめんごめん! びっくりさせちゃった!」
「大丈夫、大丈夫」
予想以上に大きい泣き声にオロオロする私をよそに、ミズキはベビーベッドからハルトくんをサッと抱きかかえると、手慣れた様子で背中をトントン叩いてあやし、あっという間に泣き止ませ、再びベッドへと寝かせた。そしてベッドの柵につけてある音楽が鳴るおもちゃのスイッチを入れた。「メリー」というらしい。
小さなスピーカーから流れる「キラキラ星」。
さっきまで涙でいっぱいになっていた大きな黒い瞳が、音楽に合わせて、くるくる回る、ミッキーマウスのぬいぐるみを追うのに夢中になっている。
「アー! アー!」
ハルトくんは、手を伸ばして笑っている。
白木でできたベビーベッドの枕元には、布で作られた絵本がクッション代わりに広げられている。ベッドの柵にはキャラクターのぬいぐるみや三角形のフラッグが飾られ、黄色のドーナツ枕に頭をのせたハルトくんは、クジラ柄のガーゼケットをくしゃくしゃにしながら、メリーの音と動きを楽しんでいる。
「ベッド、かわいいね」
「場所とるから迷ったんだけど、おもちゃとか飾るの楽しいし、買ってよかったよ」
「かわいいお部屋みたいだね!」
「Facebookの写真撮るのに絵になるし(笑)」
「いいねえ、ハルくん! もう自分の部屋持ってるんだねえ!」
「キャー!」
つやつやしたほっぺを人差し指でフニフニしてみたが、ハルトくんは私よりも、さっき取ってもらったミッキーのぬいぐるみに夢中だ。
そうか、ここはハルトくんの生まれて初めてのお部屋なんだな。
ハルトくんの口に運ばれて、よだれまみれになるミッキーを見ながら、私はあの部屋のことを思い出していた。
さとうコーポ。
私が入った大学は、当時、大学創立からわずか5年目、やっと一回目の卒業生が出たばかりだった。そのため、大学の周りに集まるたくさんの学生向けアパートは、どこも新しく、新築もまだ珍しくなかった。そうしたきれいなアパートや一戸建てが建ち並ぶ住宅街の中で、ひときわ異様な存在感を放っていた建物、それが、さとうコーポだった。
鉄筋コンクリートの三階建て。公団住宅や公営住宅に見間違えそうなクリーム色の建物の角に、黒のゴシック体で「さとうコーポ」と名前が掲げられている。聞いた話だと、建築物の高さ規制が行われる前に建てられたため、地域でも珍しい三階建てなのだという。大学に近く、通学時に目にする機会も多いからだろう。ランドマークとして学生の間でも有名だった。
それだけではない。
「漆科の伊藤先輩の部屋は、漆のにおいが染み込んで取れないらしい」
「202号室の三上先輩の部屋は、幽霊が出るらしく、部屋中にお札がはってあるらしい」
さとうコーポの住人には学生も多く、入学したばかりの私にもいろいろな噂が聞こえてきていた。
中でも何よりさとうコーポを有名にしていたのは、その間取りだった。六畳、六畳、四畳半、台所のいわゆる3Kに、風呂・トイレ別。駐車場付きで家賃4万3000円。近隣の学生向けアパートが、八畳のワンルームにロフト付きで5万円ほどが相場の中で、さとうコーポのコストパフォーマンスは群を抜いていた。芸術大学に通う学生にとって、部屋の広さは他の何にも代えがたい魅力だった。
そして幽霊の噂がささやかれるほどの古さ。壁の穴開けなどに厳しい新しいアパートと違って、さとうコーポは、すでに築20年を越えていた。3つある部屋はすべて畳。押入れも多く、自分で改造できることも多い。風呂にシャワーはなく、浴槽に水を貯めてから追いだきする古いもので、トイレは和式だったが、そうしたところも私には魅力的にうつっていた。
「私、絶対ゼッタイ『さとうコーポ』に住む!!」
大学入学と同時に一人暮らしを始めた友人も多かったが、私は実家から電車で通学していた。もちろん一人暮らしには憧れたが、親から許しが出なかったのだ。しかし、学校で噂を聞くほどに、どんどんさとうコーポにひかれていく。私は、もはや、一人暮らしがしたいのではない、さとうコーポに住みたいのだった。そして大学二年生になったある日、「住みたい!」でもなく、「住めるといいな!」でもなく、なぜか「私は住む!」と決意すると、その足で、さとうコーポを管理する不動産へと顔を出した。
「あの、『さとうコーポ』なんですが」
「ああ、今、満室ですよ」
「はい、知ってます。空きが出たら教えてもらえますか」
不動産に連絡先を教えた私は、なぜか必ず住めるという確信があった。
そして大学二年生が終わる春休み。
実家で寝ていると、不動産から電話がかかってきた。
「『さとうコーポ』、空きましたよ」
「わかりました、うかがいます」
そんな二つ返事で、私の人生初めての一人暮らしはスタートした。空いた部屋は、さとうコーポの名前が掲げてある建物の角、304号室。私は20歳だった。
「わー、広〜い!」
「旅館みたーい!」
訪れる友人たちは口々にそう言った。
さとうコーポは、畳の部屋の窓に、すべて障子がついていた。私は、インテリアは和風に徹しようと決意し、おばあちゃん家の茶の間にあるような座卓に座布団を並べた。友人らは、みんなゴロ寝。座卓の上のお茶をすすりながら、座布団を半分に折り、休日のお父さんのようなスタイルでテレビを見出す。サークルの集まりなんかにも重宝され、誰かがコタツを持ち込んできて、20人くらいの飲み会会場になったこともある。
あまりの部屋の広さに、私の下の階、204号室のアキちゃんは、マキさんとゆうこさんの3人で3部屋をシェアして暮らしていた。また私の隣の303号室に住む橋本くんは、畳を全部はがして、自分で床板を張り、部屋にドラムセットを置いていた。私も風呂場の壁をピンク色に塗ったり、押入れを机に改造したりするだけでなく、芸大生らしく、学校の課題やコンペに応募する作品を作るのに、広い部屋を存分に使っていた。夜中、時には明け方まで、作品作りでどんなに部屋を散らかしても、片付けずに寝る場所が確保できるのはありがたかった。
また、どこからものぞかれる心配のない三階の部屋だったから、昼間っから窓を開けて、近所の山を眺めながら風呂に入り、露天風呂気分を味わったり、広いベランダで朝顔を育ててみたり。私は存分にさとうコーポを満喫していた。
しかし、広いことも、古いことも、高いことも、いいことばかりではなかった。
「ボゴン、ボゴンボゴンボゴン」
ふと気がつくと、風呂場から聞いたことのない音がしていた。追いだきの風呂は、実家でも使っていたので慣れてはいたが、その日は風呂を沸かしたまま、私はうっかり眠ってしまったのだった。急いで風呂場のドアを開け、すぐにガスを止めて、おそるおそる浴槽のフタを開けると、浦島太郎の玉手箱かと思うような湯気があふれ、決して狭くはない風呂場が真っ白になった。
浴槽の中には、ガス釜の中に詰まっていたのが全部出てきたのか、無数の湯あかが浮かんだ熱湯があった。さすがにさわってみる勇気はなかった。水でうめながら浴槽の栓を抜き、もう一度、水を貯めるところからやり直し。がっかりしながらも、ドキドキが止まらなかった。
「ぎゃー!」
浦島太郎になったのは、一度だけではない。
お正月が過ぎて、テレビの上に飾っていた鏡餅を鏡開きした時。ホーロー製の赤いミルクパンにお湯を入れ、真空パックになった鏡餅を湯煎したまま、私は台所を離れ、友人との話に夢中になっていた。どのくらい時間が経ったのだろうか、お茶を取りに台所への戸を開けると、もくもくもく。グレーの煙が台所一面に充満していた。水が完全に蒸発した赤いミルクパンは黒いミルクパンになり、鏡餅はパックごと溶けだして鍋に焦げ付き炭となり、いつ火が出てもおかしくない状態だった。なんでもすぐに忘れてしまう私が悪いのだが、どちらも部屋の古さや広さの弊害でもあった。
「イヤー!」
さらに、古いさとうコーポには、たくさんの招かざる訪問者があった。
住み始めてひと月もしないうちに、私はそれと遭遇した。「G」から始まる名前をもつ、例のアレだ。三階なのに、古いから建物に住み着いてしまっているのだろう。ホイホイを仕掛けると、あっという間にたくさんかかった。
しかし問題があった。ホイホイは、見える、のだ。ホイホイはくっつくだけであって、殺すわけではない。だからずっともがいている姿が見えるのだ。それどころではない。生命の危機を感じてか、ホイホイの中で産卵するものまで現れてしまったではないか。まずい、これは大いにまずい。私は、巣に持ち帰って巣ごと死んでくれる薬に出合うまで、対「G」兵器のいろいろを、片っ端から試すことになった。
さらに、夏の夜は別の「G」がやってくる。
古いさとうコーポには網戸が設置されていなかったが、三階だからか、私の部屋に蚊は入ってこなかった。そこで夏の夜は窓を開けっぱなしにしていた。ある夜、友人のマイコちゃんが遊びに来ていた時、窓から部屋に入ってきたのは、「G」は「G」でも、蛾だった。高くて明るいさとうコーポが、誘蛾灯のように見えたのか。蛾は部屋の中を電気の明かりを求めてパタパタと飛ぶ。落ちる鱗粉。おののく私。
「蛾には電気作戦だ!」
「G」よりも蛾の方が苦手だった私は、張り切るマイコちゃんの指示にしたがって、部屋の電気を消すのと同時に、ベランダに出したスタンドの明かりをつけて蛾を呼び寄せ、その隙に窓を閉め、見事、蛾を追っ払うことに成功した。
そんな苦労をしてでも、広い部屋でボーっと過ごすのは、私にとってかけがえのない時間だった。
「すず虫、ゆずります!」
さとうコーポは、道路を挟んだ隣が小学校だった。家にいれば、学校のチャイムや登下校の子供達のにぎやかな声がいつも聞こえてくる。アパートの向かいのおじいさんが家の前に出した看板も、そうした小学生に向けたメッセージだったのだろう。面白そうなので行ってみると、快く2、3匹わけてくれた。私はアパートの薄暗い玄関に小さな虫箱をしつらえて、すず虫を飼った。
「リーン、リーン」
その夏の間、広い部屋の中で、数匹と一人が暮らしていた。
数日後、学校へ行くのに外に出ると、すず虫のおじいさんが庭で菊の手入れをしている。すず虫は元気かと聞かれ、元気だと答えると、家に入って何かを持って出てきた。
「これ、すず虫にやれ」
手渡されたのは、エサ用にと、ちょっとしんなりしたキュウリ1本とナス1本だった。学校から戻った私は、さっそく冷蔵庫から、みそのパックを持ってきて、すず虫が鳴く声を聞きながら、キュウリをかじり、ビールを飲んだ。ナスは、カレーに入れて食べた。秋の気配を感じる夜だった。
虫の心配がいらない冬はラクかというと、そうではない。
ここは、東北を代表する豪雪地帯。古いさとうコーポにはエアコンはついていないため、ストーブで暖をとるのに灯油を買うことになる。18リットル入りの灯油缶、1本の重さは約14キロほど。車で1度に2本買ってくる。これを三階の部屋まで上げなければいけない。私は一体、何の修行をしているのだろうか、階段で息を切らしながら、踊り場で灯油缶に腰を下ろして休みながら、腕が抜けそうになりながら、冬の間、何度も運んだ。さらに雪のためのスタッドレスタイヤも、1本ずつ合計4本、三階まで運ばなければならないのだった。
季節はめぐり、あっという間に2年間が過ぎた。大学を卒業し、東京に就職が決まった私は、さとうコーポを出ることになった。私の後には、大学のある市内で就職が決まったマイコちゃんが入った。その後マイコちゃんは3年で転勤になり、あとに誰が304号室に入ったのかは知らない。
私がさとうコーポを出て、十数年が経った。
気がつくと、ハルトくんはベビーベッドの中で、かわいいお腹を上下させながら、気持ち良さそうに寝息をたてていた。こんなにかわいらしく飾り付けられたベビーベッドの景色を、ハルトくんは忘れてしまうのだろう。けれど、ベッドをのぞき込んでは絶え間なく注がれる、ミズキや大人たちの愛情が消えてしまうわけではない。それは彼の体や心を大きく育んでいるはずだ。
そうか、私はさとうコーポの部屋に、育てられていたんだ。
あんなにいつも見つめていた天井の模様は、もう思い出すことが難しくなった。
部屋に遊びに来ていたミズキは、目の前で立派な母親になっている。
それでも、背伸びして入ったバーであおったカクテルに悪酔いした夜も、徹夜明けに聴こえてくる小学生達のラジオ体操も、寝っ転がって伸ばした手の先に連なる無数の畳の目も、夏の午後、部屋に迷い込んできたオニヤンマも、隣の橋本くんのドラムを聞きながら吸ったタバコの煙も、ボーイフレンドが何気なしに鳴らしたギターの音色も、アキちゃんの部屋から漂うホットケーキの香りも、雪が降った朝の障子越しの白い光も、ベランダから見上げた満月もみんな、私の中にある。
いくらバイトをしても、お金は少し足りなくて、いつもお腹がすいていて、でも時間だけは無限にあるような気がしていた。そして、ただただ広いだけの部屋が、私を包んでいた。
さとうコーポ304号室。
それから、いくつもの部屋を転々としたけれど、私が社会に出て初めて一人で暮らした特別な部屋。でっかい、でっかい、ゆりかごの中で、泣いたり笑ったりしながら、少しずつ大人になろうとしていた時間は、私の心の底らへんに、今でも流れ続けている。
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