喜べない妊婦が後悔の後に手に入れた喜び《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:あおい(プロフェッショナル・ゼミ)
妊婦が嫌いだった。
いや、他人が妊婦であってもそんなことは思わない。むしろ微笑ましく思う。
私は自分が妊婦である、という状態が嫌いだったのだ。
私には子供が4人いる。双子とかではないから、合計4回妊婦になったということになる。
一人につきたった10ヶ月のその妊婦の期間が、私は苦痛でたまらなかった。
つわりがひどかったのか? というとそうでもない。たぶん軽いほうだと思う。じゃあ妊娠期間に何か問題があったのか? というとそれも違う。至って健康体の妊婦であった。私が苦痛だったのはそんなことではなく、体型が恐ろしく崩れていくことだった。
そんなこと妊婦なんだから当たり前だ、と思われるかもしれない。神様から授かった命が宿っているのに、不謹慎だと思われるかもしれない。確かにそうだ。おっしゃるとおりだ。もちろん子供を授かってありがたいし嬉しいとは思っている。だけど、お腹がどんどん大きくなって、乳もどんどん大きくなって、もう最後の方は自分のへそが見えない、という状況まで体型が変化していくことが、私はものすごい苦痛だったのだ。
昔ある芸能人が妊娠したとき「卵で産みたい~」と軽そうに言ってたのを見て、この人おかしいんちゃうか? と思ったけれど、初めて妊娠したとき私も同じことを思った。卵だったら、夫も一緒に温められるのに。女ひとりで背負うなんて不公平だ、と。
体型が変わっていくと、当然のことながら普通の服は着られない。もちろんジーンズも履けない。今でこそ大型量販店でもおしゃれで低価格なマタニティウエアが売っているけれど、私が出産した20数年前は、デパートの隅っこのマタニティコーナーに、本当に申し訳程度にハンガーにかかっている数着の中から選ぶしかなかった。そのどれもがいかにも「私は妊婦です」と言わんばかりの、お腹を強調するようなふわっとしたワンピース、オシャレとは程遠いくせに値段も高くて、もう少しましなものはないのかと頭を抱えたくなるようなしろものばかりだった。
お腹の中で元気に育ってくれていること、それはもちろんありがたいことで、お腹をさすっては赤ちゃんと会話したり、動きを確かめたりして喜んでいるそんな自分と、お風呂に入った時の自分の姿をみて愕然とする自分、妊娠中はそんな相反する自分が常に共存していた。
妊婦が嫌いだといいながら、4回も妊娠するのもどうかと思うけれど、生まれてしまえばかわいいからそんなことは忘れてしまう。そしてまた妊娠してあーあ、と思う。
4回やっても嫌なものは嫌だ、自分の妊婦姿だけは好きになることはなかった。
そして今から10年ぐらい前、もう妊娠することもないだろうという年齢になったころのことだった。ふらっと立ち寄った雑貨屋で、かわいい傘を見つけたので買おうと思いレジに行ったとき、ふとあるチラシが目に入った。映画のチラシである。その映画は「玄牝」(げんぴん)というタイトルだった。タイトルの横に「生まれてくれてありがとう」と書いてある。
チラシをよく読んでみると、吉村医院という産婦人科でのお話のようだ。自然に子供を産みたいと願う妊婦たちが全国からやってくるという。チラシを読んでいるうちにものすごく気になってきた。どこで上映しているのだろう? どうやら自主上映らしい。チラシを持ち帰りすぐに問い合わせてみた。すると一ヶ月ぐらい先にはなるけれど、家から車で30分ぐらいの会場で上映することが決まっていた。一緒に雑貨屋に行った友人を誘うと、彼女も行きたいというので、私はすぐに2人分予約をした。映画なんてめったに見に行きたいと思わないのに、まして自主上映の映画なんてこれまで見たこともなかったのに、なぜかこれだけは強烈に見たいと思ったのだった。
そして映画の当日。劇場は50人程度の小さな映画館だった。予想通り観客のほとんどは女性だ。若い女性が多い。妊婦さんもいた。カップルできている人もいた。私たちのように、もう出産することはないだろうという年齢の人は少なかった。そりゃそうだよね、これから産む人には役に立つかもしれないけれど、もう終わってるもんねと言いながら、直感の思いつきで見に来てしまったことを少し後悔しつつ、映画が始まるのを待っていた。
吉村医院は愛知県岡崎市にある小さな産婦人科だった。そんな小さな産婦人科にどうして全国から妊婦さんが集まるのか? 私は不思議だった。その理由が知りたいと思った。
映画が始まると、鬱蒼とした森の中にある古びた日本家屋の中で、拭き掃除をしている妊婦さんの姿が映し出された。彼女たちは大きなお腹をかかえながら、板戸を雑巾で力強く拭いている。板戸というのはその名のとおり、板でできた引き戸のことである。となりの部屋との境、今で言うドアの代わりだ。その板戸を上から下まで、膝を曲げたり伸ばしたりしながら力強く拭いている。映像が庭に切り替わると、今度は別の妊婦さんが斧を振り上げ、薪を割っていた。私は信じられなかった。あんな大きなお腹で拭き掃除や薪割りなんて。自分の妊婦時代を振り返ってみて、歩くだけでもフーフーヒーヒー言っていたのを思い出し、絶対無理だと思った。
ところが、昔の女性は当たり前にやっていたことらしい。そう言われれば昔の女性は出産の間際まで畑仕事をしたり、洗濯機や掃除機のない中、全て手作業で家事をこなしていたというのを聞いたことがある。そしてお産もその自然の流れの中で営まれていたのだ。
吉村医院では、産む前に自然にお産ができる体づくりをしておくことが目的で、拭き掃除や薪割りを取り入れているようだ。その作業は強制ではなく自由参加であるけれど、お産の前後というのはメンタル面でも不安定になりやすいから、そういう意味あいでも、妊婦さん同士交流があるというのはとてもいいことだと思った。
そんなことを思いながら、映画を見ているうちに、私はあることに気づいた。妊婦さんが皆、キラキラしているのだ。顔がきれいとか、服がどうとか、そんなことじゃない。顔がつやつやしている。目が生き生きしている。この人たちは、自分が今、世界で一番美しい存在だと思っているのではないだろうかと思うぐらい、溢れてくる自信というか、その様子は私が妊婦だった時とは全く違っていた。それはなんなんだろう? 私と何が違うんだろう?
カットが切り替わりお産のシーンになった。彼女も4人目の出産だった。
4人目ということもあるのかもしれないけれど、落ち着いていた。産院の中であるにも関わらず、まるで自分の家にいるように、普通の和室に布団を引いて、周りには上の子供たちがいて、ご主人もいて、みんなで一緒に生まれてくる赤ちゃんを見守っていた。
陣痛の感覚が短くなり辛そうな時も、ずっと家族がそばで見守っていた。
そしていよいよ出産というときになって、先生がやってきた。
このまま和室で産むんだ。分娩台じゃないんだ。
聞いたことはあったけど、実際に見るのは初めてだった。
先生の声に合わせて、彼女はいきみはじめる。
ああーーっ
ふーーっ
その声は、叫ぶような声ではなく、優しくて穏やかだった。
そして生まれた瞬間、彼女はとても満足そうな顔でこういった。
「気持ちよかった」
え? なんだって? 私は耳を疑った。
お産が気持ちいいなんてあり得ない。痛い、辛い、しんどい。これも生まれてくる子供のため頑張るしかない、そう思って乗り越えてきた。それが気持ちいいって? どういうこと? でも彼女は確かに気持ちよさそうだった。お産はエクスタシーだということを聞いたことがある。その感覚なのか? 私には考えられなかった。
一時間半ほどの映画だっただろうか。私は初めから終わりまで食い入るように画面を見続けていた。
見終わって友人と一緒に車に戻り、エンジンをかけようとしたとき、「映画、よかったねー。どう思った?」と助手席でシートベルトを締めながら、友人が私に言った。
「うん、感動したわ。
あんなお母さんに産んでもらった子供は、幸せだろうな……」
そう言った瞬間に、涙が溢れてきて喋れなくなった。
私は激しく後悔していた。自分が恥ずかしかった。見た目ばかりを気にして、妊婦を嫌がっていた自分が。映画に出てきた妊婦さんたちは、みんな本当に美しかった。キラキラしていた。私と彼女たちの決定的な違いは、彼女たちが妊婦であることを誇りに思っていたことだった。そして妊婦であることを楽しんでいたことだった。
私は楽しむどころか、苦痛を感じていたのだ。子供たちに本当に申し訳ない、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。できることなら一から妊婦をやり直したい、もう一度妊婦になって、妊婦である自分とちゃんと向き合いたい、そう思った。でも今更そんなことを思ったところでどうすることもできない。それがまた辛かった。
おなかの中にいるときに、赤ちゃんはすでに母親の思いを感じ取っているという。私のように妊婦であることを嫌がり、妊婦を楽しめていない母親のお腹にいた子供たちはいったいどんな気持ちだったんだろう、それを想像すると本当に自分が情けなかった。
もしかしたら、子供がネガティブなことを言ったりやる気がなかったりするのは、私の妊娠中の思いが影響してるんじゃないか? そんなことを思ったりし始めていた。
「子供たちに申し訳ない……私がもっと、妊娠中、ちゃんとしてたら……」
声にならない声で、私は友人に訴えた。
すると友人は、私の背中をさすりながら言った。
「大丈夫や、みんなちゃんと育ってるやんか。そんなこと関係ないわ」
そしてさらに彼女はこう続けた。
「そんなやわじゃないよ、子供は」
そうだ、確かにそうだった。
妊婦時代がどうであれ、子供たちはちゃんと育っていた。
考えてみれば、私のせいでこうなった、ああなった、なんて思うこと自体傲慢だ。私が子供をコントロールして、良くしたり悪くしたり、思いのままに動かすことができるとでも思っているのか。そんなわけはない。子供は子供の人生を、自分で切り開いていくんじゃないか。
頭では確かにそう思っているのだけれど、心のどこかでうん、と言えない自分がいた。
あの映画から10年ぐらい経っただろうか。子供たちは確かにしっかりと育ってくれた。妊娠中の私の思いなんて全く関係ないかのように。かといって今、妊娠中のことを全く後悔していないというと嘘になる。やっぱり完全に消すことはできない。消せないけれど、その代わりに、私は大事にするようになったことが一つある。それは「今」だ。子供と過ごす何気ない時間、一緒にご飯を食べたり、買い物に出かけたり、ともに笑い、ともに泣き、ともに眠る、そういう小さな日常の一つ一つを大事にするようになった。もちろん24時間四六時中というわけにはいかないけれど、以前に比べれば随分と。あの映画のおかげかも知れない。なぜなら、もう二度と後悔はしたくないから。
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