77歳を超える父を、可愛いと思った瞬間。《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:オールイン・関谷(プロフェッショナル・ゼミ)
父、キヨシは寡黙な男である。
父、キヨシは東京都でも思いっきり西の方にある西多摩郡○○町という田舎で、野菜作りと養豚を生業とする農家の次男として生まれた。
昭和の初期の頃だったから、その頃は<産めよ増やせよ>というスローガンが巷間叫ばれている時代で、ご多分に漏れず父の家も子だくさんだった。父も含めて男子3人女子4人という大兄弟が一つ屋根の下に暮らしていた事になる。
昭和の大家族らしく、貧乏ながらも自給自足、楽しくわいわいと暮らしていたそうだが、ある日、父の身を不運が襲う。
3歳の時に、庭で野球をする兄や姉を追いかけていて、養豚場から出る豚のうんちをためていた肥だめにドボンと落ちてしまったのである。
「いやあね、あんときは死んだかと思った。もう目の前がいきなり真っ暗になったというか、独特の感触が体をつつんでねぇ」と父は笑って言うが、兄によって引き出されたときは、“田舎の香水”を全身から発しつつ、鼻に豚のアレが詰まって泣きわめくこともできず、ひたすら固まっていたという。
「あいつ、銅像みたいになって固まっておったわ」。キヨシの兄、サダハルは酒を飲むたびにそのときの光景を思い出すそうで、いつも親戚衆の集まりのたびにキヨシをネタに笑いをとるのが恒例だった。
その出来事が直接の原因になったかどうかは分からない。
しかし、当時のことである。
衛生状態の悪い田舎の農家である何かのきっかけで病気になることはよくあることだったようだ。
そのおよそ1年後、キヨシは突然高熱を出し、1ヶ月ほど死線をさまよった。
当時流行していた小児麻痺のウィルスに体を侵攻されてしまったのである。
医者も手の施しようがないという状況だったとも聞いているが、1ヶ月後、奇跡的にも熱は引き、キヨシはなんとか命は取り留めた。
しかし、その代償にキヨシの両足が動かなくなった。もう立って歩くことはかなわない人生だと悟ったときは、とてつもない悲しみと無力感が襲ってきたという。
そんな状態になったキヨシだが、近所の目をはばかった母親は家から一歩も出さないように、座敷に閉じ込めた、らしい。
昭和初期の頃の話だ。世間体というものが、今よりもずっと人々の心に幅をきかせていた時代だ。
キヨシは世間から隠されるように、座敷に敷かれた布団の上でその時代を過ごしていた。
キヨシの世界は、その6畳間がすべてだった。
布団に横たわって、天井を見上げ、天井板の節目の数を数えたり、その節目を目に見立ててどんな顔をしているかな、と想像するのが楽しみだったという。
ある日、どこからか知り合いが、ある雑誌をキヨシに手渡した。
当時流行していた、科学雑誌だった。その雑誌は毎回簡単な手作業でできる電子工作の付録がついているのが人気で、その号の付録はトランジスタラジオだったそうだ。
キヨシは早速、その付録を組み立てた。
「ガガー。キュイィーイーン」。
組み立てが終わり、付属の電池をケースに差し込み、イヤホンを耳に入れ、心臓がとびでるかというくらいドキドキしながら、周波数のダイヤルをゆっくり回していった。
「ガガガ……、ザザッ」
ノイズしか聞こえない。組み立てに失敗したかな、と思いながらも少しずつ、少しずつダイヤルを回して行くと、一瞬音が消え、そして色彩豊かな音楽が流れ出した。
当時はやっていたジャズの調べが、イヤホンから耳元に流れてきた。
キヨシは、6畳間から外の世界につながる術を手に入れたのだった。
当時の男の子のご多分に漏れず、程なく父はラジオの野球中継に夢中になる。
そのときの放送は読売巨人軍の試合がほとんどだったので、ほかの男の子と同様、父も巨人のファンになった。
布団に寝っ転がりながら、父は割り箸を切ってつないで作った輪ゴムピストルで天井にへばりついたハエを撃ち落としながら、ラジオで巨人戦を聞くのが1日最大の楽しみだったという。
特に、川上哲治の大ファンで、彼が打席に立つと、思わず身を乗り出しラジオのボリュームを上げた。
「カキーン。川上打ちました。ボールはレフトの頭上を越え、転々と白球が芝生の上を転がっていきます……」
弾むようなアナウンサーの声に、キヨシは身を躍らせた。
それ以来、70余年。巨人一筋。父は生粋の巨人ファンとして人生を過ごしてきた。
そんな少年時代を過ごしていた父。
ラジオを作ったり、竹とんぼをこしらえたり……。そんな体験を通じて、手先が器用だ、という自分の特技に気づき、当時、埼玉県浦和市にあった時計修理士を養成する職業訓練校に16歳の時に入学。その学校は全寮制だったそうで、洋裁士を目指す母とその学校で出会い結婚。故郷の西多摩郡に戻って、小さな時計店を開業し、静かに慎ましく、ここまで暮らしてきた。
父は、今でも仕事中は寡黙である。まず作業台の上に洗い立ての真っ白な布を置き、そこに時計の部品を几帳面に並べる。
腕時計のネジは、拡大鏡でないと見えないほどの0.1ミリ単位の代物も多く、それを透明なガラスの皿に入れたベンジンの液に浸して汚れを取ってから、鹿革の布で拭き取り、精密ドライバーを使って一つ一つ組み立てていく。
作業中は一切の言葉を発しない。そのうちに、時計に生命が宿り、「チッチッチッ……」と言う音が店中に響いていく。
時計が動くのを確認すると、父は「おーい。母さん、お茶入れてくれ」と一言。納得のいく仕事ができた後の1杯のお茶がなによりの喜びらしい。
そんな寡黙な父、キヨシだが、1日のうちで、唯一、饒舌になるときがある。
「ああ、今日もまた負けじゃな。ヨシノブ監督も頑張っとるけど、選手が小粒での。やっぱ、アベちゃんが打たんとだめじゃの」
「あ、またニシムラなんか出しおって。こりゃ今日もカラ負けじゃ」
風呂から上がってきたばかりのキヨシは頭から湯気を上らせながら、野球中継が放送されているテレビに向かって、とにかく愚痴をつぶやく、つぶやく。
画面を見ると、野球の試合はまだ6回表の中盤で、巨人は3対5とDeNAベイスターズに2点をリードされているものの、今後の展開次第では逆転も十分に可能である。
巨人のふがいなさを嘆くつぶやきとは裏腹に、表情はなんとなくうれしそうだ。
「いやあね、お父さん。これから巨人は逆転しますよ」と野球を知らない母が相の手を入れる。すると、「そうかのう。このごろ弱いからのう」とあごをちゃぶ台の上にのせて心配そうな顔でテレビ画面を凝視する。
そして、お茶をズズズッとすすりながら、「こら、サカモト。やる気なさそうに打席に立つな。今度こそ打て!」と本人に絶対届くわけでもないのに、画面に向かって喝を入れるのである。
そのうち、試合が進むにつれ、「よっしゃ、カメイが打った~」「あちゃー、ツツゴウにやられた~」などど喜怒哀楽を存分に表現し、夜9時を過ぎると70過ぎの御身には体がこたえるのか、試合が続いていようがそうでなかろうがお構いなく、ごろんとトドのように畳に横になって気持ちよさそうにいびきをかき始めるのである。
そして、母が寝ている父の耳元に、「巨人勝ちましたよ」とささやくと「ああ」といって実に満足そうな顔でにやりと笑い、そのまま夢心地の時をすごすのがいつものパターンである。
ある日、気持ちよさそうにいびきをかいている父を横目にしながら、母がこんなことを言ってきた。
「あのね、思うんだけど、この人一度球場で試合を見たいと思っているんじゃないかな。あんたも野球が好きでしょ。なんとかならないもんかねぇ」
そうだ、父は生まれてこのかた野球を球場で見たことがないんだった。
息子である私も、母の一言でようやくそれに気づいた。じつに親不孝ものである。
よっしゃ、一肌脱ぎましょう。この愛すべき父、キヨシにせめて一度でいいから、グラウンドで巨人軍の選手が躍動するところを見せてあげようじゃないか!
早速、どのようにすれば車椅子で巨人のホームグラウンドである東京ドームで試合観戦できるのか調べると、球場の担当者が懇切丁寧に電話で教えてくれた。
そのおかげもあって、無事チケットの手配が整い、この夏のある日、私は父を東京ドームに連れて行く事となった。
我が家のポンコツワゴン車に父と車椅子を乗せて、私が運転。
野球を見に行くだけだというのに、珍しく白ワイシャツにネクタイを締めた父・キヨシは助手席で緊張した様子で前を見つめていた。
「親父、今日はどんな試合になるかねぇ」
「そうだなぁ、アベちゃんのホームランが出ると最高なんだけどねぇ」
なんて話をしながら、車は東京の西部から、だんだんと都心に向かい、文京区へ。
そして、東京ドームの建物が見えてきたとき、父キヨシはだんだんと寡黙になっていった。
「もうすぐ、ドームに着くよ」
「ああ、そうだな」
キヨシの目は輝いていた。ああ、連れてきて良かった。と私は思った。
車椅子利用者は、ドーム地下の駐車場から特別な入り口が用意され、そこからエレベーターで建物内に入るということで案内されていた。
車を降り、車椅子に父を乗せ、係の人に促されて、我々親子は東京ドームの建物へ。
そのとき、私たちは気づいていなかったのだが、この入場ルートは、選手や解説者の方も利用しているものと同じだったのだ。
私と父がエレベーターに乗ってドアが閉まろうかというとき、
ある巨人OBの解説者が、「ちょっとすみません。失礼しますよ」と駆け込んできた。
私たち親子はその方を見て、「え、こんなことってあるの」と、とにかく驚いた。
特に父はあまりの偶然に固まっていた。
父と同名の、それであるがゆえに、その選手の現役時代には父が熱烈に応援していた解説者の方が、父の真横1メートルに立っているのである。
彼の現役時代、父が彼のヒットに喜び、三振に愚痴り、そして彼のサヨナラホームランに涙したこと数知れず。
テレビを通じて熱烈に応援したその選手がすぐそばにいる。
「オヤジ、これはチャンスだぞ。なんか言えよ。思いの丈を言っちまえ」
私は心でそう思いながら、父に目配せをした。しかし、父は銅像のように固まっているばかり。
エレベーターは2階、3階へとどんどん上っていく。
そんなとき、私たち親子にとっては奇跡とも言えるべき事態が起こった。
その解説者が父に向かって話しかけてくれた、のである。
「今日は暑いですねぇ。台風も近づいてるみたいですしねぇ」
父は、思いっきり緊張した様子で、額に汗を浮かべながら、こう答えた。
「そうですねぇ」
おいっ、それしか言うことはないのか、親父。
積年の思いをぶつけるチャンスではないか、親父……。
エレベーターのドアが開き、その方は我々を先に下ろしてくれたあと、颯爽と去って行った。
彼の後ろ姿を見送りながら、父、キヨシは一言つぶやいた。
「ああ、こりゃ一生の思い出だな」
ぽかんと口を半開きにした父の表情は、球場で憧れの選手を目の当たりにした野球少年の顔と同じだった。
その顔を見ることができたこと、そして、その後の試合で飲み慣れないビールを口にして顔を真っ赤にしながら、嬉しそうに大好きなチームを応援する父の表情を心に収めることができたことは、私にとっても一生の思い出である。
自宅に戻ってから、エレベーターでの出来事を母に話すと、
「そうよねぇ。あの人らしいわねぇ。緊張すると何にも言えなくなっちゃうの。小心だから。結婚式の時もそうだったわねぇ」と笑っていた。
それを聞いていた父は、「そんなことないぞ」と怒っていたが、固まっていたときの父の表情は確かに、可愛いという言葉で表現するのは一番ふさわしかったと思う。
秋になった。
今日もキヨシはいつものように巨人戦を見ては愚痴をつぶやき、試合終盤にはゴロン。
気持ちよさそうにいびきをかいて、また寝ている。
実家に帰って、そんな父、キヨシの様子を見るたびに、
息子である私は「ああ、親父、元気でやってるな」と安心し、心から嬉しく思うのである。
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