触れられることを想像したら「ふつう」に生きることがよくわからなくなった《映画『月と雷』×天狼院書店コラボ企画》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:松下広美(天狼院書店ライティング・ゼミ プロフェッショナルコース)
すーっと肌の上を手が滑っていく。
産毛をなぞるような、やわらかなタッチ。
背中、腕、腰……。
手は何往復もしていく。
そして、隠れてしまった指先の行き先を想像する。
あの手で触られたら、気持ちいいのかな。
男の人の手なのに、細く長い色気のある指先。その指先が、自分の肌を滑っていくことを、頭の中で思い浮かべる。
からだの中心……胸の中の、心臓ではなく、そのまた奥の自分では触れられない部分が、疼く。
ほんとうは、あの手で触れてほしかったんだ。
忘れていたはずの、何年も前のことが思い浮かぶ。
仕事が終わって、職場の先輩と飲みに来ていた。
2軒目に移動して、先輩はペースを落とさず飲み続けていた。
あーあ、また送っていかなきゃいけないのかな。
先輩と飲むのは好きだけど、かなりの確率で酔いつぶれてしまう。それを送っていくのは私の役目。
少しペースダウンしようかな。
ロックグラスの氷を指でカラリと弄ぶ。
「俺も一緒に飲むよ。お前ら、久しぶりだよなー」
お店のスタッフの彼は私たちのテーブルに座った。
閉店近くになり、他のお客さんはいなくなり、私たちだけになっていた。
「いいねー飲もー!」
先輩の「いいね」の「ね」が「れ」に聞こえる。呂律が回らなくなっている。やっぱり今日もヤバそうだ。
先輩とその彼はかつての同僚だった。私が入社する前に、彼はうちの会社に勤めていたらしい。転職して居酒屋店員になり、「うちの新人なのー」と先輩に紹介してもらってから、顔なじみになっていた。
「ラーメン食べてくか!」
「行く行く!」
近くに屋台のラーメン屋があるから、食べに行くことになった。
ペースダウンしようと思っていたはずなのに、すっかり忘れていた。
楽しく酔いが回っていた。
ラーメン屋でもビールを飲み、騒ぎすぎるほど騒いだ。
ラーメン屋を出て、お店まで歩いていた。
深夜の2時頃。
日中ほど車通りはなく、静かだった。
静かなのをぶち壊すかのように大きな声でしゃべりながら、先輩ともう一人は前の方を歩いていた。
私と彼は後ろの方を歩いていた。
「あいつら元気だなー」
そうですね、と答えようと思ったら、手をぎゅっと繋がれた。
「手……」
「いいじゃん」
いいのかな。
もう言葉はなかった。
繋がれた手が、言葉とは違うものを伝えていく。
そのとき私たちは、夜の空気とも、前に歩いている二人とも、違う空気に包まれていた。
「じゃあ」と言って別れた。
すっかり酔ってしまった先輩を送り、家に着き携帯を見ると、彼からメールがきていた。
「いまどこ? なんで帰っちゃうんだよ」
あのとき、アクセルを踏むことはできなかった。
彼女がいる彼と、それ以上の関係になることは「ふつう」じゃないと思った。
手を繋いで歩いた、ただそれだけだった。
映画「月と雷」を観て、ただ手を繋いだときのことを思い出した。
泰子が「あのときみたいにしてほしい」と智に言う。
子供の頃は、ただ撫でていただけなのに、撫でてほしかっただけなのに……。
泰子と智の「はじまり」は、秋がやってくるときのようだった。
ふとした瞬間に、夜はこんなに涼しくなったんだ。と、気づく。昨日まで暑かったのに涼しくなったことを感じると、昨日まで蝉の声だったのが、鈴虫の声になっていることにも気づく。
いつ、秋はやってきたんだろう。
季節の変わり目がいつだったのか、考えときにはもう次の季節はやってきている。
気づいたときには、はじまっていた。
いつはじまったのかもわからないくらい、自然だった。
いや、今はじまったわけではなく、ずっと昔から、はじまっていたんだろうか。
この映画を観なかったら、彼と手を繋いだことなど、思い出すことはなかったのに。
ほんとうは触れたかった。
触れたいのに、触れられない。
触れられたいのに、触れてはもらえない。
こんなに切ない気持ちだったことなど、思い出すこともなかったのに。
自分でも、そんな気持ちに気づいていなかったかもしれないのに。
大人になったことで、はじまることに臆病になってしまっている。
「ふつう」じゃないことに、ブレーキがかかってしまう。
生きることに、いまを守ることに精一杯になってしまい、ほんとうの気持ちにフタをしていないと、ふつうに生きられない。
あの智の手に触れられたら、「ふつう」なんて、どうでもよくなってしまうんだろうか。
そもそも「ふつう」ってなんなんだろう。
ふつうじゃなければ生きにくい世の中で、ふつうじゃない人たちが一緒に生活をする。
「月と雷」では、そんな物語が進んでいく。
いつか、大切な人ができたとき、この映画を一緒に観たい。
そして「あんなふうに触れてほしい」と伝えようと思う。
そうして大切な人と繋がったとき、「ふつう」に生きることが何なのか、わかるような気がする。
映画『月と雷』
出演:初音映莉子、高良健吾 、草刈民代 / 原作:角田光代 / 監督:安藤尋
10月7日(土)よりテアトル新宿ほか全国ロードショー!
http://tsukitokaminari.com
(C)2012 角田光代/中央公論新社 (C) 2017 「月と雷」製作委員会
天狼院書店「東京天狼院」「池袋駅前店」にて前売券販売中!
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