夫に殺意を抱く夜
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:安堂ひとみ(ライティング・ゼミ平日コース)
3年ほど家出していた夫が自宅に帰ってきた満月の夜。
私は、すっかり寝入った夫を起こさぬよう、音を立てず細心の注意をはらいながら、ゆっくりとした動きで、殺意と一緒に包丁を食器棚の引き出しにしまった。
衝動的に夫を刺してしまわないために。
ことし50歳になった夫は、二世帯住宅で同居する夫自身の両親との折り合いが悪く、親子とはいえども喧嘩が絶えない20数年間を過ごしてきた。
私自身は自分の両親と仲がよいこともあり、肉親の争いというのが、どこか遠い世界の出来事のように感じていたせいで、正直言って彼らの関係性には無関心。
だから夫がどれほどツライ思いをしていたのかも、本当の意味では知らなかった。いや、知ろうとしなかったのだ。
いまから思えば、夫はうつ病のような状態だったのかもしれない。
そして、3年前のある日。
義父(夫にすれば実父)と大喧嘩したことをきっかけに、夫は冷静さを失った状態で家を飛び出し、そのまま帰ってこなかったのだ。
「もう帰らない」と夫から連絡があったのは、2ヶ月ほどしてから。
ここだけ読めば悲劇のようだが、実際のところ、私の心は躍っていた。
夫がいないメリットは、数え切れないほどあるからだ。
まず、暗い雰囲気を醸し出していた張本人がいないのだから、家の中が明るくなる。
ついでに部屋の模様替えをして、カーテンを私好みのピンク色でレースたっぷりのゴージャスなものに変えた。
幼少のころからの夢だったお姫様っぽい部屋での暮らしが、47年目にして叶うとは思ってもみなかった。
次に金銭面。
夫は、家出をするまでの数年間は、ほぼニートだった。
働かなくてもお腹だけは減るのだから、燃費の悪い自動車よりひどい。
つまり、分類すれば「ダメ夫」に属する生き物だ。
家計を支えていたのは私。
そのダメ夫から、お金を無心されないだけでも、私にとってはプラスだった。
もっとも大きなメリットは、私の精神的安定だろう。
元来デリケートなほうではないが、夫の存在は、私のストレスそのものだった。
そのストレッサーが取り除かれたのだから、ウキウキしないはずがない。
周囲からは「最近、若返ったね?」と、頻繁に言われるようになった。
ストレスフリーがアンチエイジングに結びつくというのは、本当のようだ。
寂しさなんて微塵も感じず、誰のためでもない、自分のためだけの時間を満喫していた。
朝は、けたたましいアラーム音に起こされることなく目が覚めるまで眠り続ける。
目覚めてからは家事もそこそこに、パソコンの前に向かい、原稿を書き、顧客のWebサイトを作る。
誰にも邪魔されないというのは、なんと仕事がはかどることか。
以前はクチを開けば忙しい忙しいとつぶやいていたが、実は案外余裕があったことにも気づく。
食事は外食で済ませるようになり、思い切って炊飯器を捨てた。
私のひとり暮らしを聞きつけた友人たちがワインを片手に遊びにきたり、遠方の友人が泊まりにきたりと、楽しみも増えた。
これをパラダイスと言わずして、なんというのだろうか。
逆に夫がいないデメリットもあげてみようと思うが、実はとくにない。
あえていうなら、義父と義母がちょっと寂しそうなぐらいだ。
とはいえ、自分たちが夫を追い出したようなものなのだから、嫁の私に余計なことは言ってくることはない。
夫が家出をしたことは、別に隠すようなことではないので、周囲にも話してあったし、ネタにもなって万々歳といったところだ。
「亭主元気で留守がいい」とは、名言中の名言である。
このままずっと、おだやかな時間が続くと、私は信じて疑わずにいた。
それなのに、あろうことか夫は家出を中止して、唐突に帰宅したのだ。
玄関の扉を開けて夫を迎え入れた瞬間、すべての時間が止まったように感じた。
私の心の中では、バラ色の日々が終わりを迎え、灰色になっていくシーンが幾度となく再生されている。
今度は私が家出をしたい気分になり、眠れずに落ち込んだ夜を過ごした結果、冒頭の「包丁」をしまう行動に出たというわけだ。
ところが。
3年間の家出生活によって成長したのか、夫は家事をこなす人になっていた。
仕事もしていた(これが一番の驚きだ)。
私が仕事で忙しそうにしていると、台所でたまりにたまった食器を洗っているではないか。
自分の洋服は、自分で洗濯機に入れて洗って干す。
朝起きると布団をたたんで、勝手に出社していく。
仕事が終わると、私へのお土産と称して、プリンやらゼリーやらを持ち帰る。
なんだろう? どう見ても普通の人間が、そこにいる。
ダメ夫の姿は、見る影もない。
まさか、ここはパラレルワールドか? と思うほどに。
夫が帰宅して、はや2ヶ月が経つ。
家出をする前のころのように、家の空気が重たくなることはなく、両親と言い争っている様子もまだない。
私も少し慣れてきて、2人暮らしのペースをつかみつつある。
捨ててしまった炊飯器も、あらたに買い直した。
夫が帰宅するまでは、一日中誰とも会話をしない日もあったが、いまは毎日、他愛もない会話を通じて、自分の声が出せることを確認している。
夫がいる生活というのも、まぁ、悪くない。
物音がして、ふと目を見やると、自らの胃袋を満たすためキッチンに立つ夫がいる。
その手には、あの日私が、危険回避のために引き出しにしまい込んだ包丁が握られていた。
包丁とまな板がおりなす「トントントン」というリズミカルな音が心地よい。
そんな夫の姿を見るたびに、夫が包丁を握る理由が、空腹であったことに、ほっとするのだ。
そして、引き出しの中に隠してある私の殺意が、このまま生き返らないことを、私は願っている。
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