カノンとメロス
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:湯浅直樹(ライティング・ゼミ日曜コース)
「文ラボ、またやってほしいです」と声に出してみて、やっと言えたと琴野カノンはおもい、心のなかでひとり胸をなでおろした。
カノンはその夜、ひとり学校帰りに池袋の東京天狼院書店に来ていた。
9月末に4周年を迎えた店は、19時からお祝いのパーティーがはじまり、すでに2時間ほどがすぎている。
店内の空気はしずかな熱気につつまれていたが、それはお酒のためというより「編集会議」と題されたイベントが進行中のためであるようだ。
店主、スタッフ、客の3者が、おたがいの立場を越えたところで「天狼院書店で今後どんな活動をしたいか」というテーマで活発な議論がつづいている。カノンはイベントの開始からずっと「編集会議」の行方を追い続けていた。
カノンが座った席は、入り口にいちばん近いテーブル席だった。むかいの席に座った青年は、鎌倉で書店のオーナーをしているという。
「書店の経営者さんが、どうして?」
パーティーがはじまった頃カノンがそう聞くと、青年は「天狼院さんみたいなおもしろいことを、ぼくも自分の店でやってみたいんですよね」と、すこし照れくさそうにいった。
「天狼院さんて、読書会とか写真部とか、いろんな活動やイベントをされてるでしょう」と青年はつづける。父から引き継いだ鎌倉の店は、彼が子供のころよりも店の規模がちいさくなり、店舗の半分はチェーン店の経営するカフェになったという。
「おもしろそうなこと」と、いわれてカノンには思い当たることがあった。
去年の夏。ある日曜日にカノンは、高校の文芸部で同級生のユミカに誘われてこの店をはじめておとずれた。
あとでもう一人、同じ文芸部のミキノと合流し、3人でお昼ごはんを食べるやくそくをしていたから、時刻は午前中のことだったとおもう。
その頃のカノンは、通学路にある図書館で本を借りることが多かったから、とくに書店による理由もみつけられず、英語の参考書でも見てみようと、ぼんやりと思っていた。
大きな道路をわたり、ジュンク堂書店の隣にある通りを奥へ奥へとともだちについて歩いていった。
ずいぶん歩いたなあと思いはじめたころ、ユミカが「ここみたい」といって店へつづくビルの階段をのぼりはじめた。
ふたりの背中を見ながら、二階までのみじかい階段を登るとき、カノンは大乗雨かなあと少し不安な気持ちなっていた。中学の遠足で訪れた鍾乳洞をクラスメイトの後ろについて歩いた時の感じになんだか似てるとカノンは思った。
ドアを押したユミカとつづくミキノの背中ごしに、はじめて天狼院書店の店内を見たとき、むかいにある窓から差し込む夏の日差しで床が光っている。少し眩しくて、訳もなく綺麗で、なんだか冒険をしているみたいとカノンは思った。
それから三人に起きた出来事について、カノンは今でもどうしてそうなってしまったのかを、あまりよく思い出せない。だけど、恥ずかしさと緊張にドキドキやわくわくした気分がない混ぜになって、身体が熱くなったことは忘れずに覚えている。その日は、遠足の前日みたいに興奮してなかなか眠れなかった。
店に入ると、4つのテーブルがひとつにつけられていて、椅子に何人かのおとなの人が座っていた。何か、来てはいけないタイミングだったのではないかと、三人はとっさに悟ってどうしたらいいのかと入り口付近から先に進めなくなってしまった。
立ちすくんでいた三人に、女性の店員さんが「これから文ラボっていうイベントがあるんですよ」と、はじめて来られたんですか? といいながら事情を説明してくれた。
聞けば太宰治の「走れメロス」を、みんなで読んだあとに、原稿用紙に小説を書き写すのだという。
三人とも文学部だと聞くと、「とび入りで、参加してみませんか?」と、その店員さんは誘ってくれた。
ユミカが参加してみたいと言い出し、ミキノも面白そうとノリ気になった。答えを出す前に、つきあいでなんとなくカノンも参加したけれど、朗読や原稿用紙に小説を書き写すという内容に心惹かれなかったかといわれると、否定はできなかった。
学生や社会人の男女の集まりのなかに、「とび入り」するのは、ちょっと怖かったけれど、三人でなら大丈夫かも。こういう時、物怖じしないユミカや冷静で落ち着いているミキノのが側にいるのは心づよかった。
10時になると三人を誘った店員がテーブルの端に座り、カワシロと名乗ると司会進行をはじめて、「文ラボ」がスタートした。
カワシロさんのとなりにユミカ、ミキノと奥に詰めて座り、カノンは入り口に近い端の席に座っていた。
カワシロさんから時計回りにはじまった自己紹介でなにを話したか、なにを話せたかもカノンは思い出せない。
イベント前にいそいで購入した『走れメロス』の文庫本の、その表紙をつつんだ黒いブックカバーを見ながら、印刷された天狼院書店という店名をじっと見つめるばかりで、顔を上げることができなかった。
自己紹介がおわると「丸読みをします」とカワシロさんがいい、「丸読み」とは、小説の文章を一文ずつ、「。」のところまで参加者でまわし読みしていくのだと説明してくれた。
「メロスは激怒した。」
この一文からはじまる読み合いに、カノンはなんとかついていった。
メロスがシラクスの市で、暴君の王にいう。
「罪のない人を殺して、なにが平和だ。」
メロスは捕らえられるが、王に申し出る。妹に結婚式を挙げさせるため村に戻り、3日でまたシラクスに捕らわれるために戻ると。
「とんでもないうそを言うわい。
逃がした小鳥が帰ってくると言うのか。」
疑う王にたいして、友人セリヌンティウスを身代わりにメロスは村に戻る。
声に出して小説を読んでいくうちに、カノンはときにメロスになり、王になり、語り手となって結婚式を祝う村の様子を伝えた。読み進めるうちに、『走れメロス』ってこういうおはなしだったんだと、カノンは思いはじめていた。8人で読むことで生まれる時間が、すこし冷静になって物語をながめる余裕をカノンにもたらしたのかもしれない。
メロスは、強い人ではなかった。
妹の結婚式を終えて、シラクスの市へ向けて走り出したあと、疲れて動けなくなり、弱音をはいて一度はウトウトとまどろみさえしてしまう。
こんな物語だったのかと、カノンは思った。
自分は、『走れメロス』のことをなにも知ってはいなかった、知っているつもりになっていただけだったと気付いた。
太宰の文章は、リズミカルで躍動感があり、まわし読む参加者8人のテンポも自然とひとつになって、物語はぐんぐんと前へとすすんでいった。
岩の裂けめから流れる清水を口にしたメロスは、ふたたび身も心も立ち上がる。
カノンが読む順番が近づいてきた。
「わたしは信頼に報いなければならぬ。」
ユミカの声が聞こえた。
「いまは、ただその一時だ。」
ミカノのがそう言ったあと、間髪入れずにカノンは読んだ。
「走れ! メロス。」
読みながら、カノンは自分の声にぞくりとした。
自分でも思いがけず、発せられた声は落ち着いているのに力がこもっていて、メロスの決意が静かに身体中に広がっていくようだった。
カノンは、いまもときどきあの時のことを思い出しながら、太宰治の小説を読むことがある。
ふと、今夜自分が、天狼院書店のあの日とおなじ席に座っているのを思い出した。
「編集会議」も終わろうかという頃になって、やっとカノンは、手を挙げることができた。会議は、白熱してつぎつぎと誰かが発言するので、カノンは、もう自分が何かを言うことはできかもしれないとさえ思いはじめていた。言えてよかった思ったとき。
「文ラボ、またやりますよ」と、司会席にいた店主の三浦さんが笑いながら答えてカノンを喜ばせた。
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