プロフェッショナル・ゼミ

大先生について《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【2月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:永井聖司(プロフェッショナル・ゼミ)

※このお話はフィクションです

2年半も働いたし。そろそろ就活始まるし。
今のバイトをやめようと思ったのは、大した理由ではなかった。3回生後期に入った大学生なら、大抵一度は考える命題のようなものだと思う。
それなのに。

「単刀直入に、言うね」
向かい合ったその人は、俺が椅子に腰掛けるのを見ると、そう言った。半ば身を乗り出すようにしたその人は、縁なしメガネの奥にあるいつも冷静な瞳でこちらを見つめていて、逃さない、という雰囲気を醸し出していたので、俺にはもうなんとなく、出て来る答えの予想がついていた。
「君の申し出は、却下だ」
なんでだよ……。
予想通りの答えではあったけれど、俺は内心でツッコんだ。しかしさすがに、その言葉を口に出すほど、俺も阿呆ではなかった。
俺の沈黙を、理解できていないと捉えたのか、相手は、佐原副館長は、口元に少し笑みを浮かべながら、言い聞かせるようにして、もう一度言った。
「だから君の、アルバイトを辞めたいという申し出は、却下だ」
なんでだよ!
もう一度、そして今度は先程よりも激しく頭のなかでツッコむが、やはり言葉は出てこない。というよりも、言えるわけがない。
佐原副館長のメガネに、今の俺の姿が映っていた。
ノリの効いた水色のシャツに青のネクタイ、紺のズボンという制服。そして傍らに制帽を置いた、警備員としての姿だ。一介の警備員が、しかもただのアルバイトで、更には大学生の俺が、この施設の、国立美術館のNo.2の言葉に、簡単に反論できるはずもない。
ただしそもそもは、この状況自体がおかしいのだ。
直接この美術館に雇われているわけでもない、警備会社を通してやってきているだけの俺が辞めるかどうかを、副館長が判断すること自体が、おかしいのだ。
数十分前の、電話越しの声が、蘇る。

「すまん! 俺じゃ判断できないわ!」
警備会社の主任の渋谷さんは、俺の、バイトを辞めたいという申し出を聞いて散々唸った後、そんな風に返してきた。本当に申し訳なさそうに、そして同時に、とても困った様子で。
「悪いんだけどさ、直接先方と話してみてくれないかな?」
渋谷さんの人柄を考えても、声を聞いても、面倒くさいから俺に処理を押し付けるような、そんな考えではないことは、十分にわかった。でもだからこそ、不思議だった。どうして、たった1人のバイトが辞めるかどうかが、こんなにも大事になるんだろうか。

「なんでだか、わかる?」
そんな俺の考えを見切ったように、佐原副館長が、質問をしてきた。その顔には、悪戯っ子のような、見覚えのある笑顔が、浮かんでいた。

「大先生のお世話があるから、だろ?」
横を歩く山本さんが、当然と言った感じで笑顔を浮かべつつ回答した内容は、大正解だった。一語たりとも違わず、佐原副館長の言った答えと、同じだった。
「そりゃそうだよ。俺だけじゃなくて、そのクイズの答えは、職員全員がわかるさ。川村くんが辞めたら、みんな悲しむぞー」
「大先生の相手するのが、みんな嫌なんでしょ」
「そういうわけじゃないさ!」
職員用の黒のスーツに身を包んだ山本さんは、大げさに、手をブンブンと横に振りながら、アピールしてみせた。
「だって大先生、川村くんにしか懐いてないし」
「懐いてないって……」
「だって事実だろ?」
クリクリッとした大きな瞳でこちらを覗かれると、山本さんが年上ということもあって、どうにも否定しづらい。
「そんなことないでしょ、他の人だって……」
「いや、心を開いてるのは、川村くんだけだね。あとは副館長か」
「副館長は当然でしょ」
「そりゃそうだ」
山本さんは声を上げて笑っていたかと思うと、何かを思い出したように口元に笑みを浮かべて、こちらを見た。
「そう言えばさ、川村くん知ってる?」
「何をですか?」
「大先生さ、やってくるといつも、入り口に立ってる職員に、『りょうくんはどこ?』て聞くんだぞ」
りょう、と言うのは、俺の名前だ。
「ウソでしょ」
「キュンときた?」
来てないと言えば、ウソになる。
「おー! 来てるご様子!」
「茶化さないでくださいよ!」
「茶化してるわけじゃなくて、話には続きがあってさ。みんなそういう風に聞かれるもんだから。職員みんな、川村くんの出勤日と、出勤している時はどこにいるのか情報共有して、大体把握してるんだぞ?」
「……ウソでしょ」
「これ、ホーント!」
心底楽しそうな笑顔を浮かべる山本さんが、年上とは思えないノリで小突いてくるので、鬱陶しくて振り払ってやった。
「でも」
「あ! 照れ隠しに話題を変えたな!」
「うるさいな! でも、俺が大先生にしたことって、ホント大したことじゃないんでけど」
「あ。そう言えば俺も、川村くんがどういう風に大先生に気に入られたのか、よく知らないな」
「気に入られたって言い方、ヤメてくださいよ」
また鬱陶しく山本さんが小突いてくるので、俺は仕方なく、副館長の前で話したのと同じことを、話し始めた。

なんだかどうにも危なっかしい。
それが、俺が大先生を初めてみた時の、第一印象だった。
美術品に熱中しているせいもあって、足元がフラフラフラフラ、どうにも覚束ない。そしてそれなりの確率で、他の鑑賞者にぶつかってもいた。「すいません」とすぐさま謝ってはいるけれど、一向に改善のきざしは見られない。そんな様子だったので俺は、巡回のルートを回りつつ、こっそり大先生をマークすることにした。
当時の俺は、この国立美術館の勤務になって、まだ2日目だった。
アルバイトで警備員をしようと思ったのは、それなりに身体を動かせる仕事が良いと思ったからだ。子供の頃から現在まで、種目は違えど運動部に所属していたこともあって、ちまちま手元で何か行うような仕事は合わないと思った。それでいて、キツすぎて、授業や遊びに影響が出るものもNGだ。ゆるすぎずキツすぎず、そんな条件でヒットしたのが、警備員だった。しかも最初の勤務先が国立美術館と聞いた時は、内心ガッツポーズを取った。美術館なら、そんなに危険な客に出くわすこともないだろうし、日によっては、冷暖房付きの中で仕事ができる、なんて最高なんだ! そう思った。
欲を言えば、ヌードの絵とか、男しての欲求も満たしてくれる作品なら良かったのにな。
巡回しつつ、周囲に並ぶ仏像群を見ながら、わずかばかりの不満を思い浮かべる。
その時開催されていたのは、どこぞのお寺の仏像展で、美術自体からきしな俺にとっては更に謎の、そして退屈な展覧会でしかなかった。
ドタッ!!
「きゃあ!」
そんなことを考えていたら右前方から、何かと何かがぶつかる音と声がして、俺は慌ててそちらを向いた。そしてすぐさま、俺はイメージの中で、頭を抱えた。
大先生が、今回の目玉の1つである仏像の展示台を載せるための土台部分に、倒れ込んでいたのだ。仏像が見やすいようにと高さを調節するため、また人が近づきすぎないようにするための立方体の土台。その右前部分に、大先生は思い切り倒れ込んでいた。
内心で舌打ちしつつ、素早く大先生に近寄った俺は、その体に手を伸ばす。
「大丈夫、ですか?」
大先生に声を掛ける俺の背中に、痛いほどの視線を感じる。大先生も同じように感じていたのだろう、声を掛けた俺に答えることなく、土台に手をついて、起き上がる。無視かよ、と内心思ったけれど、致し方ない。しかし大先生は、恥ずかしそうな様子を浮かべながらも、でも逃げ出すことはなくその場に立ち尽くし、そしてまた、仏像を眺めていた。
不思議だったのは、大先生が倒れたのが、仏像の正面ではなくて、右斜め前。仏像の位置で言うと、仏像の背中側だったことだ。しかも今も大先生は、仏像の背中側に、熱い視線を向けていたのだ。

「その言葉、だったんだ。川村くんがお気に入りになったわけは」
回想の中の、その次の言葉を言った時、山本さんが話を止めた。そのタイミングは、佐原副館長が話を切ったのと、全く同じ場所だった。そして、微笑ましいものでも見るように、こちらにその笑顔を向けてきた。
「そうやって質問されたのが嬉しくて、しかもその内容が、美術のズブの素人丸出しだったのが、大先生には面白かったんだろうね」
「カモだ、て思われたわけですか」
「意外に人間て、大したことで動いてないんだな〜」
その時のことを思い出して、俺も笑顔を浮かべながら、山本さんを見た。
確かにその日を境に、大先生は、美術館に来る度、俺を見つけては一緒に過ごすようになった。仕事があるからと俺が逃げようとするも、大先生は俺の巡回にあわせて美術館を巡り、そしてことあるごとに、『鍛えてやる』と言っては、美術に関するクイズを俺に出して、答えられない俺を見ては、イタズラに成功した時のように嬉しそうな笑みを浮かべて、楽しんでいるのが見えた。
「こっそりやってたつもりなんですけどね。まさか全職員が、俺の居場所を把握する事態にまでなってるなんて」
「あそこまで一緒にいて、他の職員が気づかないわけがないだろ?」
大先生の相手をしていることについて気づかれている自覚はあっても、全館を巻き込む事態になっているとは、思いもよらなかった。
「でも、話を聞くだけなら、他の職員でも良かったんじゃないんですか?」
「まあそこは、川村くんが、ズブの素人だから良かったんじゃない? 俺や他の職員は勿論、君の先輩の警備員さんたちだってここ長いからさ、中々に美術に詳しいんだよね、大先生よりも。だから大先生にとっては、色々聞いたり話したりするのが、恥ずかしかったんじゃないかな?」
「そんな中で、目下のやつを見つけたぞ、てわけですかね」
「家の中で、犬が人間を階級付けするみたいにね」
「俺、犬ですか?」
「忠犬・川村くん、だな」
やめてくださいよ、と言いかけた所で、俺の身体は硬直した。
「りょうく〜ん!!」
背後から、美術館に見合わないボリュームで、俺を呼ぶ声が聞こえたからだ。
「お。噂をすれば、ご主人様の登場だ」
楽しそうに笑いかける山本さんに、少し照れくさそうな笑顔を返しつつ、振り返った。
元気いっぱい、短い足を回転させて走ってくる大先生の姿が、そこにはあった。いつも背中に背負っているランドセルは、笑みをたたえながら後ろをついてくる、佐原副館長が抱えている。
「りょうくん、つーかまえた!」
ヒシッと、俺の両足に手を回した大先生が、満面の笑みをたたえながら、こちらを見上げてきた。
すると俺も、自分の口角が緩むのを感じた。
「今日も元気だね、大先生!」
足を掴む大先生の手を解いて、しゃがみこんで目線を合わせる。するとそれだけで大先生は嬉しそうに、また笑顔を浮かべた。
「よっし! 今日も鍛えてもらいましょうかね、大先生!」
「おう! 今日もりょうくんを鍛えてやるぞ!」
腰に手を回して抱っこしてやれば、更に大先生は嬉しそうな様子になり、声が一段と大きくなる。
「シーッ」
そんな大先生の前に、顔の前に人差し指を立てた佐原副館長の顔がやってくる。
「大、他のお客様に迷惑がかかるからな、静かにするんだぞ」
「はーい!」
わかっているのかいないのかわからない、でも元気よくピーンと上に手を伸ばして、大先生こと、佐原大くん8歳、つまり佐原副館長の息子は、答える。
そしてそんな様子に、俺も、佐原副館長も、そして山本さんも、笑顔を浮かべる。

「どうして、背中側から仏像を見てるの?」
俺があの時言ったことは、それだけだった。

「実はあの時偶然、遠くからその様子を見ていてね。君が何か言った瞬間、大の目が輝くのが見えたんだ。比喩じゃなくてね、本当に」
俺がアルバイトを辞めることを却下した理由を話す中で、佐原副館長は、そんな話をした。

「えー! お兄さん知らないのー! 仏像は、後ろから見るから良いんだよー!!」
大先生の声は会場中に響き渡り、そして先程まで、台座に倒れ込んだマナーのなっていない子ども、と見ていた周囲の観客たちの、笑いを呼んだ。
「お兄さん、なーんにも知らないから、僕が教えてあげるね!」
これが、俺と大先生の、馴れ初めだった。

「仏像を後ろから『も』見るというのは、仏像研究をしている私の姿を見て、勝手に大が覚えたことだと思うんだけどね。もちろん仏像は、背中側だけ見れば良いというわけじゃないからね、そこは勘違いしないでくれ」
その時の様子を話す佐原副館長の表情はとても穏やかで、父親の表情をしていた。
「ただ、そのことを教えられる相手が出来て、大は嬉しかったんだと思うんだな」
そして一度、佐原副館長の唇が震えて、何か言うのをためらうようにしながら、また話し始めた。
「実は大は、小学校では少し浮いているようでね……それで、話し相手になってくれるような友達も、ほとんどいないみたいで……。君には、煩わしいかもしれない。そして君が言ったあの一言を、君自身は、覚えていないかもしれない。それでも、大にとっては、大の生活が一変するような、大きな出来事だったんだよ」
まさか。それ以外の感想が、俺には見当たらなかった。本当に何気なく、しかも今聞かれるまで忘れかけていた言葉が、そんなにも大先生に影響を与えていたなんて、思いもよらなかった。
「君と出会ったその日の夜、大が私になんて言ったか、わかるかい?」
「いえ」
「『パパ、もっと仏像について教えて! 教えたい人が出来たから』てさ。あれはまるで、初恋みたいだったな、フフ……」
息子を、大先生を心底愛する父親が、そこにはいた。
「だから、君の管理をしている渋谷さんにも言ってね、君はやめさせないでくれ、といったんだよ」
「そこまで」
「親バカかな?」
親バカですね、とは、さすがに言えなかった。それよりも、素敵な親子関係の中に混ぜてもらえていることが、嬉しいと思った。
「だから、大のために、やめないでやってくれないか」
そして佐原副館長は、ただの警備員の俺に、深々と頭を下げた。

大先生は、まるでロボットに乗ったパイロットのように、俺に指示を出しながら館内を回った。不思議と、いつもよりも笑顔が多いように感じた。そして俺も、いつもよりも笑っている気がした。
この時間も最近はマンネリしていて、大したことじゃないと、思っていた。だから、辞めようと思った。大した理由もなく。
「りょうくん!」
大先生が、美術品を見るのをやめて、こちらに顔を向ける。
「ん? なんですか、大先生」
おどけつつ、俺は答える
「だーいすき!」
そしてガシッと、首に腕を回されてしまえば、俺の動きは止まってしまった。大きすぎる、ダメージだった。
大したことじゃないと思っていても、実は大したことがあるのだと、この時思った。

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