痛恨のミス! しかし、おじさんは英雄になった!!
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記事:南部千里(ライティング・ゼミ日曜コース)
金曜の夜、東京駅。いくつもあるホームに電車が次々と滑り込んでは、大量の人々を呑み込んで走り去っていく。終電までは数本余裕があるが、車内は飲み会帰りの人々で混み合っている。そういうわたしも、部署の飲み会帰りだった。毎日ヒールを履いて客先を回ってクタクタになりながらも、なんとか1週間を乗り切った。金曜の夜ともなると、足のむくみは酷いし、小指にできた豆はズキズキと痛む。疲れ切って帰宅したところで、「おつかれ」と笑顔で癒してくれるイケメンの彼氏もいない。とりあえず明日は、お昼前までゆっくり寝よう。それから溜まっている洗濯物を片付けて、部屋を掃除して……以上、わたしの休日終わり。自分のことながら残念すぎて、心の中でそっとため息を吐く。
電車は、まだチラホラと明かりが着いたオフィスビルの前を通り過ぎていく。車内は一駅ごとに人が増え、座席もつり革も埋まってしまった。東京駅から3、4駅経つ頃には、通路の真ん中にある隙間にも人が流れ込むようになった。電車が揺れると隣の乗客と肩がぶつかりそうになるので、つり革を握る手に力を込める。だいぶ混んできたなぁ、と思っていたその時だった。
「ちょっと、いい加減にしてよ!」
横長の椅子の反対端から、女性の高い声が聞こえた。一瞬で車内の空気がピンと張りつめ、何が起きたんだ、と不穏な空気が漂い始める。痴漢でも起きていたのなら大変なことだ。わたしはそーっと首を傾け、声をあげた女性の様子を伺った。女性は、後ろに立っている男性に対して文句を言い続けている。
「さっきからずっと、腕が当たってんのよ! いい加減にしなさいよ!」
どうやら、電車が揺れるたびに、つり革に掴まる男性の肘が女性の頭に当たっていたらしい。文句を言われている男性の方を見てみると、がっしりした白人男性だった。女性に向かって、何言ってんの、という感じで肩をすくめ、両手を軽く広げている。大きめのバックパックを背負っていることからも、海外からの旅行者らしい。おそらく、本人には悪気がなかったのだろう。つり革に掴まって普通に電車に乗っていたら、いきなり女性に怒鳴られた。何か怒っているようなのだが、日本語がわからない。僕は何もしてないし、何が悪かったんだよ、と言うようにジェスチャーしていた。
このジェスチャーが、女性の怒りにさらに油を注いだ。馬鹿にされたと感じたのか、「あんた何なのよ、ケンカ売ってんの!? ふざけんじゃないわよ!」と、今にも男性に掴みかかりそうな勢いで食ってかかる。男性の方も謝る気配はなく、そんなに怒ることないでしょ、ちょっと君クレイジーじゃない? とでも言いたそうな態度だ。2人とも自分の主張を一歩も譲らず、1駅過ぎても2駅過ぎても、一向に争いが収まる気配はない。車内の空気は緊張を通り越し、どんよりと重くなっていく。どちらかが電車を降りるまでケンカは終わらないんじゃないだろうか、と誰もが思っていたその時だった。
「まぁまぁまぁ、やめなさいよ、2人とも」
2人の隣に立っていた中年のサラリーマンが声をかけたのだ。「もうね、十分でしょ、そろそろ止めたら?」と2人をなだめる。酔っ払っているのか、呂律がちょっと怪しいのだが、そんなことはどうでもいい。2人に割って入ったおじさんに、乗客の期待が集まる。お願いします、どうか2人の争いを止めてください……。
ところが、女性の怒りは収まらなかった。収まるどころか、今度はおじさんに向かって「だってコイツがぶつかってきて……」と文句を言い始める。外国人の男性も、自分は悪くない、とおじさんにアピールし始めた。これは、次の駅あたりで駅員さんを呼ぶしかないかも、と誰もが諦めかけたその時だった。おじさんは、うーん、と唸ると息を深く吸い込み、そして叫んだ。
「ビー、シークレット!!!!」
……
…………????
おじさん、それを言うなら、「ビー、クワイエット」だよ……。
完璧に言い間違えている。おじさんは「ビー、クワイエット」と言おうとして「ビー、シークレット」と言ってしまったのだ。しかも、いい声で自信満々に。
「ビー、シークレット」って何だよ、何をどう秘密にすればいいんだよ、と心の中で思わずツッコミを入れる。あまりの可笑しさに顔がニヤけそうになるので顔を下に向けると、目の前に座る乗客の肩がプルプルと震えている。笑いを堪えているのか、顔は下に向いている。おじさんの言い間違いに気付いた人が増えるにつれ、車内の空気が変わっていく。まるで「笑ってはいけない」シリーズのように、みんな必死で吹き出しそうになるのを堪えていた。1人でも吹き出す人がいたら、もう止まらないだろう。
言い争っていた2人はというと、ポカンとした顔で固まっている。おじさんの言い間違いで、怒りのボルテージを保てなくなったらしい。そうこうしている間に電車が次の駅に到着して男性が降りていき、いつの間にか、女性もおじさんも車内からいなくなっていた。
「ビー、クワイエット!」とかっこよく英語でキメるはずだったおじさんは、勢い余って単語を間違えた。痛恨のミスだ。しかし、おじさんの言い間違いのお陰で2人の争いは終わり、家に帰ったわたしは、1人でお腹が捩れるほど思い出し笑いをした。
名前も知らないおじさん、ありがとうございました。この場を借りて、勝手にお礼申し上げます。
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