母を看取る勇気
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:Ruca(取材ライティング講座)
日本の高齢者の人口が21%を超え、超高齢社会となった。そうなることを見越して、平成12年からは介護保険サービスが提供されるようになり、高齢者介護の問題を個人で担うのではなく社会問題として捉えようという動きが広められた。しかし、介護を苦にして命を失う事件が後をたたない。
ウチとソトを区別する人は、ヘルパーの家事サービスを受けるために前夜に大掃除をするという妙な光景もあったりする。ウチとソトを厳密に線引きし、内部の問題を他人に晒すことも、他人に口を挟まれることも嫌いがちな京都人ならなおさらだ。
他人事だった親の介護問題が、最近自分ごとになりつつある。
介護に関する知識やスキルそして裏事情さえも十分に理解している。
今は別分野だが、最前線にいたこともある。
この介護問題は、誰もに平等にやってくるから厄介だ。ましてやキャリアを積んだ働き盛りのシングル女性にとっては頭の痛い問題なのだ。
友人と呼ぶには少し距離を感じていた憧れの女性がいる。
ヨーロッパでプロトコールという国際儀礼を学び、華々しいキャリアを積んだその女性は、誰に対しても心地よい対応ができる人だ。日本中だけではなく世界をも飛び回りながら仕事をしていた。
カッコいいという形容がぴったりくる彼女とは、日々のラインの中で母の介護のことを社交辞令のように話していた。
社交術を身につけた彼女なら、介護が必要となったお母さんにだってきっとウルトラ級の対応をしているはず。ほのぼのと平和に過ごしているんだろうなあと勝手に想像していた。
そんな彼女と沖縄で会うことになった。
颯爽とした彼女の姿に介護疲れは微塵も感じさせなかった。
仕事の話からだんだんと親の話へと移っていった。
彼女の葛藤や苦しみを知ることになった。
潰されかねない不安を垣間見た。
母の中で少しずつ自分と過ごした記憶が薄れていく寂しさや、不本意なセリフに心を痛めることがあると、話してくれた。
大好きだった母が知らない他の人になっていく寂しさや、一人での介護に限界を感じたことを話してくれた。
一方、私の母は扱いにくい。何かにつけ彼女流にねじ曲げられ、独自の理論を展開する。人の話は聞かないのだ。
「介護は女性のキャリアをストップさせる。私はあなたたちにそんなことはさせたくない」と話す。
「身の回りのことを自由に行えるくらいになった方が、よっぽど今より厄介ではないんですけどね〜」と返したくなるが、そこはグッと辛抱をする。
車で5分ほど離れて住む母の状態をそっと見守り、わからない程度に支援し、時に介助の手を差しだしながら付かず離れず距離を開けて生活をしている。
今後、もっと直接的な介助が必要になってくるだろう。
日々歩きづらさを見せる母に、私の見立てた症状改善のための治療法を提示した。しかし、母は治療を受けることを選ばなかった。
自然治癒力で改善する範囲は超えていると説明するが響かず、自分の生き方を貫くと譲らなかった。
病院では、生活上のちょっとした注意点や自分でできる体操などを、「私のために書いてちょうだい」と頼まれるが、母は全て捨てた。
医療従事者としての私がしてあげられる数少ない全てを拒絶された。
近所に住むのは私。
いざというときは動くのは私。
母が心地よく過ごせる様に、半ば諦めの気持ちとともに母の選択に寄り添うことにした。
しかし、意見の違う妹がいた。
遠方に住む妹は、たまに会う母が老いていくことを、見て見ぬ振りができない。
母の意向に異議を唱え、自分の意見を理路整然と伝え、豊かな財力をバックに行動に移す。
「お姉ちゃんがバカだったから、嫌な思いをよくした」と言っていた。
今もきっとそう思っているんだろうな。母の意見なんかのんびり聞いてないで、縄をつけてでも病院に連れていくことをなぜしないって思いながら、動いてくれているんだろうな。
母の示す症状は、私の古巣が専門としている疾患だ。
ありとあらゆる症例を見たと言えるほど様々な方に対応をしてきた。オペ前の状態と、オペに向かう心構えの状態でオペ後の姿が推測できる程だ。
確かに軽快される人は多かった。
しかし、「こんなことなら、手術などしないほうが幸せだった」という声に悩まされることもあった。
私は母らしく生きる姿を見守り、看取ることを選んだ。
それは決してあきらめた姿勢ではない。
母が持つ生きることへの価値観に対する寄り添いのつもりだ。
きっと10年前の私にはそういう心情はなかった。
年齢のなせるものなのだ。
少し年齢の若い妹には、まだたくさんの可能性が見えているのかもしれない。
そんなことを友人と話した。
娘としてできることには限界がある。
「自分たち自身の生活はどうしようか」と深刻にならず真剣に話した。
自分はどうしたいのか?
自分らしく生きる。したいことをする。
これが私たちの答えだった。
母だけではなく私たちも、年齢とともに自分の生き方を邪魔されたくない気持ちが強くなるのかもしれない。
カッコいい彼女が同じことで悩み答えを導き出していた。
いつのまにか、彼女が等身大の友人に変わっていた。
もちろんカッコいいには変わりないが、私には大切な身近な友人だった。
介護には知る人ぞ知るちょっとしたルールがある。
適度な距離が心の平和を生む。
自分を見失わないためには、これだけは譲ってはならない。
そして、口を挟む人ほど実際には動かず、厄介な問題を生み出す。
暗黙の了解で出来た力の流れに従うことが必要だと。
沖縄には「ぬちぐすい」という言葉があると教えてくれた。
ぬちぐすいは命の薬を意味し、心を元気にしてくれるものを指すらしい。
高齢という長い時間の流れが、認知症や脊柱管狭窄症などの疾患をうむ。長く生きた証に作り出された副産物と共生しようとする母たちに、最高の「ぬちぐすい」を一緒に探してあげられる様な心のゆとりを持ちたいと思った。
年齢を重ねた母と向き合い、看取る勇気を少し持った。
その勇気とそうなる様に寄り添ってくれた友人が、きっと私にとっての「ぬちぐすい」なのだ。
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