愛は、体力。
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事: 田中 伸一 (ライティング・ゼミ日曜コース)
妻が里帰り出産することになった。4歳になる伸太郎も連れていくから、およそ4か月は独身生活だ。
仕事で家を空けることの多い妻と一緒に家族3人の生活を切り盛りしてきた。家事も育児も、「手伝う」なんてレベルではない。自分がしなければ誰もやらないんだから、頑張るしかない。朝食と弁当を作り、伸太郎を起こし、着替えさせ、食べさせ、保育園に送り、職場へダッシュする。仕事が終わったらダッシュで閉園間際の保育園へお迎え、夕飯、風呂、洗濯、寝かしつけ……。笑顔で子どもの話を聞くどころではない。イライラして、予定を乱す伸太郎を怒鳴りつけてばかりだ。「児童虐待」の文字が頭に浮かぶ。
伸太郎をかわいがることができない自分には愛がない。いつも自分で自分を責めていた。それが、いきなり自分一人になる。ポッカリと空くであろう時間をどうしようか。
通勤電車の窓から「〇〇トレーニングセンター」の文字を見かけたのは、そんな頃だった。30代も半ばになって、すぐ疲れるようになった。腕も脚も細くなり、下腹だけが丸くなって、桂歌丸師匠みたいな体型になっている。肩こりもひどい。この際、しっかりトレーニングして、筋肉を増やさないと危ないんじゃないか。看板のことを考えているうちに、筋トレしなければ自分の人生にとんでもないことが起きるような気がしてきた。
土曜日に看板のあったあたりに行ってみた。細い路地の中に、その小さなジムはあった。
受付には誰もいない。しばらく待つと、Tシャツ姿のオバちゃんが来た。
「あの、入会を考えているんですが」
と言うと、オバちゃんは大きな声で
「コーチ、新しいお客さんですよ!」
と中に向かって叫んだ。
現れたのは、ゴルゴ13を思わせる50代後半と思しき人だった。真っ黒に日焼けした顔、Tシャツの袖からはみ出すような腕。この人が、このジムのオーナー兼コーチだ。
「筋肉が落ちすぎて、ちょっとヤバいんじゃないかと思って来てみました」
そう言った私に、彼は励ましてくれた。
「最近は、介護予防とか言って、高齢の方も来てますから、大丈夫。無理せずに徐々に負荷をかけていけば、健康になれますよ」
その日は、ジムの中を軽く見学して終わり。コーチの言う通り、結構年取った人が2人、休み休みマシンを動かしていた。静かなものだ。これなら、大丈夫かもしれない。そう思ってジャージと運動靴を買いにスーパーに寄ってから帰宅した。
やると決めると、ジムに行ける日が待ち遠しい。初めて行くと決めた日は、仕事をしていても落ち着かない。そこそこで切り上げて、足早に向かった。
路地を通って入り口まで来た時、ドキッとした。
「ハーッ、ハッ!」「フン!! フン!!」「オッシ!」
中から獣じみた声と、激しく金属がぶつかる音が聞こえてきた。
ちょっと生命に危険を感じる響きである。このまま入って大丈夫だろうか。モジモジしていると、後ろから声を掛けられた。
「初めて? 着替えはこっちだから」
その人の後ろについて、スーツから着替える。
「お前も、おっきくなりたいの?」
「え? いえ、とりあえず運動不足解消と思って来ました。よろしくお願いします」
おっきくなりたい? 何のことだろう。着替えても何からやっていいのかわからないのでボーっとコーチが来るのを待っていた。なんか、ものすごい重りをつけてバーベルでトレーニングしている人たちがいる。さっきの獣の声は、彼らが発しているのだった。工事現場のような金属音は、重いウエイトを下すときの音だ。
ふと目を上げると、「ミスターユニバース」の表彰状が目に入った。脇にボディビルのポーズをしているコーチの写真がついていた。この時はじめてここがボディビルのジムだと理解した。それなら、さっきの人が大きくなりたいのかと聞く意味もわかる。貧相な肉体を改造するために来たと思われたのだ。
どうなっちゃうんだろう。もしかして、ムキムキになるんだろうか。人前で裸になるのは抵抗があるけど、鏡に向かってポーズして喜ぶようなナルシストになるのか。妄想が脳内を駆け巡る。
そうしているうちに、コーチが来た。腹筋から始めて、一通りの筋トレを教えられた。バーベルは、重りなしの棒だけから。他も最低ランクの負荷だったが、教えられたとおりの正しいフォームだとかなりキツイ。
翌朝、全身筋肉痛で目覚めた。こんなので続くんだろうか。職場では、上の棚に手を伸ばすだけでも「アイテテテ……」というほどだった。でもトレーニングが続けられるまでは内緒にしておきたくて、我慢した。ボディビルのジムに行き始めたなんて言ったら、職場の反応が恐ろしい。筋肉痛が収まってから行こうと思っていたら、3日間バキバキのままだった。
それでも、会費を払ってしまったので後悔しながらも通うことにした。通い続けるうちに少しずつ腹筋台の傾斜がきつくなり、扱うウエイトも上がっていった。常連さんにも声をかけてもらえるようになった。
このジムの人たちは面倒見が良い。コーチはオーナー一人なのだが、その場にいる先輩たちが教えたり、補助したりしてくれる。合間にたわいもない話をするようになった。
ようやくジムに行くことが習慣の一部になった頃のことだ。出勤途上で信号が変わりそうになった。何となく走り出して驚いた。10代の頃のように、脚が上がるし蹴り出しもしっかりできる。何だかうれしくなって、横断歩道を越えてもしばらく走ってしまった。腹筋やスクワットをしてきたことが、こんなに生活を変えるのか。
変化がわかって鍛えることが面白くなってくる。ロッカールームで
「田中さん、最近胸が張ってきたね」
とか
「腹筋がきれいに割れててうらやましいよ」
なんて言われると、まんざらでもない気分になる。胸囲が増えているか、ときどき密かに測ってみたりした。こうなると、もはや筋肉オタクである。プロテインを飲むようになったし、手袋などの用具も少しずつ買いそろえ、暇に任せてジム通いを続けた。
4か月が過ぎ、里帰り出産から家族が帰ってきて、こんどは家族4人の生活が始まった。少し大きくなった伸太郎を抱っこしても、楽勝だ。保育園への大量の荷物も、通勤ダッシュも、トレーニングになるかも? と思えるから、苦にならない。ちょっとした気持ちの余裕で会話が増え、互いの笑顔が増えた。
愛は、心の中の問題。イライラする自分は、愛する努力が足りないと思い込んでいた。でも、真の解決策は、別のところにあった。まず私自身に体力があって、少し余裕があること。それで初めて家族を思いやるゆとりが生まれる。
私にとって愛とは、体力の問題。ボディビルがそれを教えてくれた。
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