どうしたって僕たちは、ロダンの《接吻》を写真に収めずにはいられない《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:永井聖司(プロフェッショナル・ゼミ)
息を呑む、美しさだった。
その姿が視界に入った瞬間に自然と、阿呆のように僕の口は開いたけれど、声は出なかった。まるで美しさの波動によって、外に出ようとしていた言葉が体内に押し戻されてしまったかのようだった。
そして気付けば自然と、ポケットに手を突っ込んでいた。
いつもならもっと躊躇する所、不思議とそんな気持ちは湧き上がらなかった。
撮らなければ。この姿を写真に収めて残さなければ。そんな衝動のほうが強く強く前に出て、僕の体を突き動かした。
スマホを取り出し、カメラを向ける。白い2つの肉体が画面の中に収まっているのを確認し、シャッターを切る。カシャッという、やけに耳に残る電子音が展示室の中に響いたように感じたけれど、気にすることはなかった。
展示室の中では皆が皆、彼らにカメラを向けていたからだ。360度、ありとあらゆる方向から向けられるレンズが2人のヌードを狙い、さながら僕たち鑑賞者は、パパラッチの集団のようだ。きっとみんな僕と同じように、カメラを向ける体を止められない魔力に掛かってしまったに違いない。
更に僕は、1枚取り終えれば位置をずらしてもう1枚、また1枚取ってはもう1枚と、微妙に角度やアングルを変えて、2人を狙った。ズブの素人のくせに、この瞬間だけはプロカメラマンになったつもりで、より美しく、自分自身の受けた衝撃を現せる1枚があるはずだと信じて、静かに動き回り、シャッターを切り続けた。そんな動きをしている人が、展示室のそこかしこにいた。
数え切れないほどのレンズと瞳の先にある作品ーーロダン作、《接吻》
横浜美術館で開催中の『ヌード展』。その目玉である作品には、人々を虜にするだけの魔力が、確かにあった。
そんなことになるほんの数時間前。
横浜へと向かう新幹線の中で、僕は不安に襲われていた。
それは、『ヌード展を、楽しめるのだろうか』という、単純かつ切実なものだった。
僕の趣味は美術館巡りで、今回のゴールデンウイークのように長期の休みともなれば広島から東京や関西へ行き、美術作品を見て過ごすのが常だった。
とは言っても、『ヌード』をメインテーマにした展覧会へ行くのは初。しかも、アート関連のサイトやSNSを見ると軒並み高評価であったことが、期待を増幅すると同時に僕を不安にさせた。『ヌード』
と言えば、美術作品の中でもまた別ジャンルのようなイメージで、見た経験も、知識も少ない僕に楽しめるのか、不安だったのだ。
そんな心持ちで展覧会会場に入ってみれば、その予想は、悪い方向に的中してしまった。
展覧会会場で僕を迎え入れたのは、水辺に立ち、裸の状態から白い衣を纏おうとしている1人の女性だった。
女性らしい柔らかな体のラインと、こちらを見つめる美しい顔立ちに肌、大きくはないがきれいな乳房が印象的で、照明の当て方の効果もあって神々しい雰囲気を放っている作品だった。
しかし、それだけだった。確かに美しく描かれた女性ではあったのだけれど、それ以上、僕には何も響いてこなかった。男としての欲望を引き立てるようなエロスも無ければ、美術作品として感心できるような技術も、僕には見つけられなかった。
マズイ……。
急激に、不安が増大していく。
周囲を見れば、他の鑑賞者の人たちにはこの作品の良さがわかっているように見えてくる。この作品の良さがわかっていないのは僕だけで、場違いな場所に来てしまったような居心地の悪さが、僕を襲った。
展覧会の冒頭、掴みの作品で何も感じられない僕が、果たしてこの先ヌード作品を楽しめるのだろうか。
そんな思いを抱えつつ、早くも重くなった足を動かして会場を進めば、意外にも早く救いは訪れた。しかもそれは、男性のヌードだった。
ハモ・ソーニクロフト作《テウクロス》
矢を射った後の緊張感みなぎる一瞬を表した、等身大のブロンズ像だった。肉体は大きすぎず、適度に盛り上がる胸や腕に肩の筋肉と、細マッチョに分類されるその肉体は、同性として見て素直に良いなと思えるものだった。そしてその肉体が、ブロンズの持つ光沢のおかげでまるでオイルを塗ったように輝いていれば、僕は自然と、「美しい……」と、呟いてしまっていた。
釘付けだった。
何度何度も、像の周囲を行きつ戻りつをくり返し、くまなく像を眺めた。同時に、来館前に僕が抱いていた『ヌード』イコール『エロス』という短絡的な発想は、必ずしも正しくはないのだと、思い知らされた。
僕がテウクロス像に抱いた感情は、憧れだ。同性として、こんな肉体になれたら良いと感じさせられる魅力が、その像にはあった。
そして周囲を見てみれば、展覧会の第1章は、同じような位置づけの作品が展示されていることに気付かされる。
主に神話を表すために描かれた、見れば自然とため息が出るほどの、理想的な肉体たち。これが、『ヌード』の1つのあり方なのだ。
そんな風に自分の中で納得が出来た所で、第2章へと進んでいけばまた、それまでとは違うヌードが、僕の前には現れた。
バスタブに浮かぶ女性に、大きな窓の前で佇む女性、黒い帽子を被ってソファーに座る女性などなど。神々しいまでの美しさを放った第1章のヌードとはまた違う肉体が、そこにはあった。
神話とは無縁の、日常の中に存在するヌードたち。それでいて日常の中にあるだけにヌードの違和感が強調され、エロスの匂いは少なく、それよりかは親密さや、作品全体に漂う穏やかな雰囲気の方が強く感じる作品が多いような、そんな印象だった。
解説を読めばこれは、理想的な肉体を描いていた第1章の時代の後の動きとして起こったことらしい。画家たちが描くモチーフを変化させ、理想的なものから身近な人々へと対象を変えていった結果、ヌードの持つ意味もまた、変わっていったのだった。
そのまま第3章へと進んでいけば、ヌードの意味や形は、また変化をする。
そのエリアに、明確な顔や体など、僕たちが普段思い浮かべる肉体は、ほとんど存在しなかった。輪郭や顔の形でだけであったり三角であったり、どこが顔でどこからが体なのかさえわからないものもあったりと、そこでは、肉体は抽象化されてしまっていた。その有様は、肉体というよりは素材といったほうが正しいように感じられる。しかしだからこそ、目や鼻は口が描かれた作品とは違う、新たなヌードへの考え方が持てるのかもしれないと、そう思わせてくれる作品群だった。
そして第3章まで見終えてみれば、自然と自分の足取りが軽くなっていることに、僕は気づいた。理想的な肉体に、親密さを感じさせる肉体、そして抽象化された肉体と、『ヌード』という1つのテーマであっても時代や画家の考えによって大きな違いが出てくるのだということを感じれば、僕は間違いなくヌード展を楽しんでいた。
次は、ヌードに対するどんな新たな見方や考え方を知ることが出来るのだろうか。
そう思っていた所で出てきた作品が、ロダンの《接吻》だったのだ。
第4会場に近づいていく中で、その白い肉体が少し覗いただけで、僕の体は『何かが違う』と興奮の声を上げていた。
そして会場に足を踏み入れて全貌が見えれば、息を呑んだ。そして、『ヌード展を、楽しめるのだろうか』なんて思っていた自分について激しく後悔し、そんなことを考えた自分について誰かに謝り倒したいと思った。
大理石で出来た2つの肉体はライトに照らされ、淡く発光しているようにさえ見えた。それだけ神々しく、美しく、目を離せなくなる力が、そこにはあった。
裸の男女が、接吻をする一瞬を切り取った作品だった。
まっすぐ座る男性の体は、一目で鍛え上げられているのがよくわかった。腕や胸、脚の筋肉の膨らみが適度につき、鑑賞者に向けられている背中は大きく逞しく、安心感に満ち溢れたものだった。そしてそんな彼の首筋に腕を回す女性は、女性らしさを強調するようにSの字のような形になりながら男性にしなだれかかっている。後ろ姿は女性らしい丸みと柔らかさを感じさせ、2人の体の重なりによって、大きすぎない乳房が強調されすぎずに見えるところが、神秘性とエロスのちょうどはざかいにあるような独特の、魅惑的な雰囲気を放っていた。更に対称的な2人の肉体によって、より掛かる女性と力強く支える男性という、古典的ながらシンプルな男女の姿が表されていれば、鑑賞者たちをその物語の中に引き込む引力があるように、僕には感じられた。
愛し合う二人の姿を優しく見守る友人のような気持ちと、接吻する男女の姿を覗き見しているようないけないことをしているという背徳感が交互に訪れては、その2つの気持が動力源となって鑑賞者の気持ちをかき乱して鷲掴みにし、像の虜にしていく。
360度見渡せるようになっている像の周りを何周したのか、10分か20分か、何分いたのかももう、よく覚えてはいない。ただただ熱心に、長いこと熱心に見ていたのは間違いない。
そして、どれぐらい経ったかわからない頃にようやく、キリがないからと第4会場を後にすれば、作品に関するビデオ映像が放映されていたので、僕は座って休むことにした。そして映像を見つつ、聞き忘れていた作品解説も再生し、なんとはなしに聞いてみれば、
「えっ」
と、僕は小さく呟いてしまった。そしてすぐさま立ち上がり、第4会場に逆戻りをすれば、再び、《接吻》像を見つめた。すると、同じ像を見ているはずが、違う像を見ているような感覚に、陥ってしまう。
ダンテの『神曲』の中に登場するこの2人は名を、女性がフランチェスカ、男性はパオロと言い、パオロは、フランチェスカの義弟だったのだ。そして接吻している姿を夫であり兄であるジョヴァンニに発見された2人はこの後、刺殺されてしまう。
先ほどまでは愛し合う2人の、幸せな接吻だと思っていたけれど、そうではなかったことに気付かされる。
そして、どうしてこの作品を写真に収めなければいけないという気持ちに駆られたのか、わかった気がした。
死ぬ直前の、本当の一瞬、本当の情熱を切り取り、彫刻という永遠の姿に閉じ込めたのが、ロダンの《接吻》像だったのだ。
金メダルを獲得したスポーツ選手の姿がいつまでも色褪せず、時に僕たちを勇気づけるように、この作品にも一瞬の輝きのパワーがあるのだと、僕は感じた。
一番身近だからこそ、一番魅力的なモチーフ、ヌード。そんな言葉で、ヌード点の解説はしめくくられた。
この展覧会に行ってよかったと、心から思えた。
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