「日本人1名行方不明」《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:島田弘(プロフェッショナル・ゼミ)
「日本人1名行方不明」
フランス人スタッフの無線でやり取りされていたそうだ。
実際にその日本人は、砂漠の中で死にかけた。
この事件が起きたのは、
1995年のケニアでのことである。
行方不明になった日本人とは当時22歳の大学生。
そう、私のことである。
私は趣味の自転車、中でもマウンテンバイクにハマっていた。その頃はレースというよりも、日本中を旅するための手段としてマウンテンバイクにハマっていた。
ところがある日、自転車雑誌をめくっていて「これ行きたい!」と思ったレースがあった。
それがこのケニアで開催されるレース、ケニアラリーであった。
ちなみに当時の私は海外というものに興味関心がなく、「ケニアってアフリカのどこらへんだったかな」なんていう知識だし、英語も全く話せない。そんな私の人生初の海外旅行先に選んだのがケニアだ。正確には旅行ではなくレースだが。
実は笑い話があって、参加しようとしたのは1994年のレースだったのだが、いざ申し込もうと思ったら期限を過ぎていて申し込めなかった。もしこの年に参加していたら、日本チームにはスピードスケート、それから自転車競技でオリンピックに出場された、現在は国会議員の橋本聖子さんが参加していたので、一緒に走っていたはず。
私が参加できたのはその翌年の1995年の大会である。
フランス経由でケニアに向かった。
到着するまでに、事前説明なしの給油のための着陸だったり、
到着した空港が事前説明とは違っていたり。
初海外な上に日本人の私からすると道中は驚くことの連続だったが、ケニアラリー参加者は全員無事にケニアの地を踏むことができた。
明日から待ちに待ったケニアラリーだ。
そう思っていたら、なぜか日本人参加者の自転車だけが税関で止められてしまい、レースに出られない状況が判明。いつ自転車が届くかもわからない。せっかくケニアまで来たのに、このまま帰国することになるのか?
目的のラリーを楽しめていない現状に我慢できず、同じコースをマラソンする日本人も数名現れた。もちろん私もその1人である。
確か、大会が始まって3日目の夜のことだった。
「もうすぐ自転車が届く」と大会の責任者から連絡があった。それから少しして、ダンボールに入った日本人の自転車が次々と運び込まれた。
私は明日のレースのために部屋に戻って部屋で自転車を組み立て始めようとして、ダンボールを開封したその時、顔から血の気が引いた。
このレースのために新調した重要な部品がなぜかバラバラになっているではないか。
パニック状態になっている私のところへ、偶然にも日本チーム代表の沖さんが現れ、「ありゃ~」と言いながら10分ほどで修理をしてくれた。
沖さんがいなかったら、間違いなく私はケニアを自分のマウンテンバイクで走ることができなかった。とてもありがたかった。
日本チームのメンバーがレースに参戦できる様になったその日、私はとてもワクワクしていた。沖さんのおかげで自転車の調子も良い。体調も良い。「これは良い結果が出せるかもしれないぞ」とちょっぴり自分に期待した。
スタートしてしばらく、私は先頭集団について走っていたのだが、ペースに追いつけなくなり、私ひとりが先頭集団から離されてしまった。
後ろを振り向くと後に続く選手や集団は見えない。
「このペースで走りきれば、良い成績を出せるんじゃないだろうか?」
と考えると、ペダルを踏み込む力も強くなっていった。
目の前に分岐点が現れた。
正確には分岐点に見える場所が現れたのだ。
道と呼んでいいのかわからない。
現地の人々が沿道(?)に集まっていて、それが二手に別れていたのだ。
ちゃんとしたレースなら、この分岐に看板などが掲げられているはずなのだが、ここはアフリカ。
そこらへんに転がっていたと思われる大きめの石ころに主催者が白色のスプレーで矢印を書いたものが地面に転がっていただけだ。
誰かがいたずらをしたのか、その矢印は二手に分かれている道の真ん中からやや右方向を指していた。
これは右ってことか?
沿道の現地の人たちに、英語の話せない私がジェスチャーでどの方向かを聞いてみると、右の方にいる人たちは右を指し、左の方にいる人たちは左を指している。
先頭集団のタイヤの跡を探した。右の道にも左の道にも自転車のものと思われるタイヤ痕があった。一体どっちなんだ?
自分の勘にかけた。
左に違いない。
左の道を全速力で漕ぎ始めた。
沿道から大声援が沸き起こった。みんな手を振ってくれている。私は手をふりながら「ありがとう。サンキュー」と答えていたのだが、よくよく聞いてみると「マネー」「スイーツ」という掛け声と手の動きだったとわかってショックだった。
分岐からどれくらい漕いだことだろう。
なにやら様子がおかしいのだ。
この先は侵入してはダメだと書かれた看板、国立公園入り口と書かれているらしい門が出てきた。
そしてこのとき初めて自分が道を間違えたことがわかったのだ。
正解は右だったようだ。
今来た道を帰ろうと思っても、そこには道らしき道はないのである。
つまり、どう帰ったら良いのか全くわからない状況。
ピンチだ。
私がまずとった行動は、水と食料の確認だった。水は1リットルほど、食料はレース中などに食べやすい200キロカロリーほどのバーが1本だけ。
これはまずい、1日も持たないぞ。
俺、死ぬのかもしれない。
気温40度、日陰なし。
人生でリアルに死を意識したのは初めてだ。
確実に死は近づいている。
来た道なのかわからなかったが、自分の勘を信じて引き返すことにした。
最悪、現地の人が住んでいると思われる小屋があったので、そこに泊めてもらおうと。
30分くらい漕いだ頃、遠くの方に土煙を上げて走る車の様なものが見えた。
助かるかも?
反射的にその方向に向かって全力でペダルを回していた。
車だ!
車は大会主催者のものだった。
白いバンが私の目の前に止まった。
「助かった。これで車に乗せてもらって宿泊先に行ける」
そう思ったのだが、違っていた。
ジェスチャーから判断する限り、バンに乗っている人たちは私にむかって怒鳴っているようだ。
私なりに理解したのは、
「お前なにやってんだ。ゴールは向こうだ。先導してやるから早く走れ」
であった。
疲れ切っていたが、命が助かったと思うと嬉しくて、車の後ろを走り続けた。
どれだけ漕いだのかわからない。辺りは暗くなりかけていた。
そして、行方不明の日本人は最下位でゴール。助かった。生きている。
あの時、右に行っていたら結果がどうなっていたのかは誰にもわからない。
左に行った私は死にかけた。では左を選択した私は間違っていたのだろうか?
実は、海外の自転車雑誌に大きく取り上げられたと連絡をもらった。それはオマケのようなもので、実はとても大きな学びを得ることができた。その後の人生においてとても役に立っている学びだ。
それは「人生全てがネタである」ということ。
今こうして死にかけた話をネタにできているように。
選択したことを後付けでも正しかったと言える自分でいることが大事なんだよ、きっと。
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