あのとき淹れてもらったコーヒーは、今もずっと《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:久保明日香(プロフェッショナル・ゼミ)
「え……無い……?」
私はその日、リニューアルオープンした商業施設で、ある喫茶店を探していた。
エスカレーター横のフロアマップを何度も見る。
階を間違えているのだろうか。そう思って左上に目を向けると大きく『4』という数字がある。そこはまぎれもなく私が足繁く通っていた4階だった。
なのに、どれだけ探してもフロアマップには私が探し求めている喫茶店は見当たらなかった。
最後にその喫茶店を訪れたのは2月だった。
バレンタインデーに配るチョコレートの買い出しに来た私は、休憩のためにある商業施設の4階にある喫茶店、『コンフォート』に立ち寄ることにした。そこは私が大学時代の約4年間、アルバイトをしていた喫茶店である。店名の通り、居心地がよくホッとするその喫茶店は私の第二の家だった。今ではすっかり仲良くなった家族のようなメンバーが勤めるその場所に、アルバイトを辞めてからも客の一人として通い続けていた。
その日は、まだ夕方の5時なのにいつもと比べてお客さんが少ないように感じた。
商業施設が建替え工事の真っ最中だから、その影響もあるのかもしれない。
そう思いながら店に入るとすぐに店長の荒木さんが私に気づいてくれた。
「久保ちゃん、久しぶり。いらっしゃい」
私は定位置のカウンター席に座り、ブレンドコーヒーを一杯、注文する。
「最近どうですか? 建て替え工事終了が5月末でしたっけ? ビル全体が縮小しているから、やっぱり人、減ってます?」
「うーんそうだね。久保ちゃんが働いていた頃が多分一番忙しかったかな」
そんな他愛もない会話をしながら荒木さんがコーヒーを作り始める。今まさに挽かれたばかりの粉からは香ばしい懐かしい匂いがした。粉とお湯を丁寧に混ぜ合わせて撹拌させ、コーヒーを抽出する。カップに移し替えて目の前に出されたコーヒーからはふんわりと湯気が立ち上り、私をリラックスさせる。
「リニューアルオープンは6月ですもんね。きっとその頃は今とは比べ物にならないくらい忙しくなってるんじゃないですか?」
「……そうだね。……そうなるといいんだけどなぁ」
荒木さんは遠いところを見つめながらポツリと言った。どことなく、いつもに比べて元気が無いように見えた。何かあったのか聞こうとしたその時
「おっ! 久保ちゃんじゃーん。いつぶりだろう? 最近仕事忙しいの?」
休憩から戻ってきたお姉さん的存在の杉坂さんが現れた。
「お久しぶりです。そうなんですよ。実は4月から仕事の担当業務が増えるので引き継ぎとかで忙しくて。春以降もここに通う頻度が減っちゃうかもしれないです」
「久保ちゃんも大人になったんだねぇ。ここに来たときは何も知らない娘を拾っちゃったかな、なんて思ったけど」
杉坂さんがにやっと笑いながら告げる。
「も~! からかわないでくださいよ!」
そう言ったものの、それは事実だった。
私は当時、「働く」ことを甘く見ていた。注文を聞き、ケーキとコーヒーを運ぶ、ただそれだけの仕事なのだから誰にだって簡単にこなせるだろうと思っていた。そんな軽い気持ちで仕事に臨んでいた私の心を正してくれたのは『コンフォート』の家族である。そしてその筆頭が荒木さんと杉坂さんだった。
コンフォートは知る人ぞ知る美味しいワッフルが食べられるお店だった。平日でも2時から5時まではほぼ満席。土、日に至っては昼からほぼ満席の人気店で従業員は息をつく間も無いほど慌ただしく働いていた。そんな職場に入った私がまず任されたのは洗浄機だった。
「最初は洗浄機の扱いに慣れてください」
私は業務用の大きな洗浄機の前に連れて行かれた。その横にはコーヒーカップやワッフル皿、仕込みに使ったボウルなどが所狭しと積まれている。
「なんだ。洗い物って言っても、手洗いじゃないし、全然楽じゃん」
私は黙々と洗浄機にお皿を入れ、洗い終えたお皿を取り出す作業を繰り返していた。すると、
「久保さん、19番さんのお皿、下げてきてもらえますか?」
と当時まだ副店長だった荒木さんから指示があった。
お皿を引いて洗浄機の前に戻ると、先程より積まれているお皿の数が増えていた。
再び気合を入れて洗浄機につきっきりになっていると、
「ほら、顔出してちゃんとホール見て」
と言われ、ホールからもどってくると、
「お皿たまってるよ! 洗浄機にかけないとお皿が切れちゃう」
と言われる。この繰り返しだった。お店の面積はそんなに広いわけではないのに、全方向に気を配ることがなかなか出来なかった。
ホールを見て、注文を伺い、洗浄機を回す……。仕事に慣れるまでは毎日てんてこまいだった。
加えて閉店まで勤務に入っている日は営業時間中に並行して締めの作業も行わなければならなかった。
「久保さんには『洗機の洗浄』をお願いするね」
遅番勤務が多い杉坂さんが私にその方法を丁寧に教えてくれた。
洗う場所、電源を切る順番や器具の取り外し方、消毒のために最後に熱湯をかけること……。私はうなずきながら説明を聞いていたのだけれど、次第に杉坂さんの表情が曇っていくのがわかった。聞く態度が悪かったのだろうか、途中で説明に介入をしなければならないのだろうか、そう思っていた矢先、説明が終了した。
「じゃあ……今言った説明、最初から全部、繰り返してもらっていい?」
私は一瞬、声が出なかった。
そして悟った。他人事のように聞いているだけではいけなかったのだ。次の勤務から『洗浄機の洗浄』を一人でこなす必要があるのに!
私は必死に杉坂さんの説明を思い出しながら手順を復唱した。
「久保さんさ、今はだいたい覚えてたけど、多分メモ取ったほうがいいと思うよ。じゃ、キッチン片付けながら見てるから、やってみてね。あ、もちろんホールを見るのを忘れずに」
杉坂さんはそう言って去っていった。
人間の記憶には限界がある。初めて聞くことなら尚更そうだ。時間が経つとすぐに忘れてしまう。私は一切、メモを取っていなかった。今まで働いた経験が無かった私はこんな基礎的なこともできなかった。杉坂さんは働く意識が低い私にピリッとお灸を据えてくれたのだ。
私はその日から、「メモを取る」という当たり前のことを始めた。
「これ、やったことある?」
そう聞かれたときは記憶をたどり、思い出す。そして、メモに書いていることを確認し、
「大丈夫です!」
そう答えると、みんなが大きく一回頷いて別の仕事を始めるのだ。
何度も質問をするのではなく、一回で聞き、二回目からは自分でできるようにする。そうすることで他のメンバーも自分の仕事に専念できているのを感じた。
アルバイトを始めて3ヶ月ほど経ち、自分の動きが少しずつ良くなっているのがわかった。そのことに気づいたメンバーも口に出して教えてくれた。
「久保ちゃん、動き良くなってきたね」
アルバイトを始めてから褒められたのは初めてだった。照れから、頬が熱くなるのがわかる。
「あとはもっと、視野を広げて、先を読んで行動できるようになればいいんだけどなぁ」
荒木さんが洗浄機の横に置いていた洗い終えたワッフル皿を大量に抱えてキッチンへもどりながらそう言った。
私は既に精一杯、周囲やお客様に目を配っているつもりだった。大きな声でいらっしゃいませと声をかけ、手を挙げられたらさっと駆けつけ、注文を取る。レジ前で呼ばれたときだって同様だ。他にどのように周囲に目を向ければいいのだろう。荒木さんの後ろ姿を見ながら考えていると、あることに気づいた。
「あ! お皿!」
洗い終わった食器はある程度ためてからキッチンや各収納場所へと運ぶように教えられていた。だけど、時折、気づいたらお皿やカップがなくなっていることがあった。今の荒木さんのように使用する人が「足りない」と感じたとき、自ら回収にきてくれていたのだろう。今、何が足りていないのか。お皿なのか、ボウルなのか、鍋なのか。それはちょっと周囲に目を向ければわかることだ。
これは従業員に限ったことではない。
お客さんだってそうだ。
注文が決まって手を挙げる前に、先を見てさっと駆けつける。私自身、店員さんにちょうどよいタイミングで注文を取りに来てもらえたら「おっ、やるじゃん」と思ったことが何度もあるのにどうして今まで気がつかなかったのだろう。
これも働く上必要な意識であることは間違いない。
このようにコンフォートの家族は私が就職して社会で「働く」ために必要なことを沢山教えてくれた。挽いたばかりのコーヒーの粉とお湯をヘラでゆっくりかき混ぜながらなじませるように、私の行動と知識を混ぜ合わせてくれた。丁寧に撹拌され、抽出されたそれは自然と腑に落ちて、深みがたっぷり詰まった美味しいコーヒーになり、私の中に溜まっていった。
だけどそのかけがえのない場所が、フロアマップに載っていないのだ。
大切な第二の家が、その家族が、コーヒーから立ち上る湯気のように跡形もなく消えてしまった。
コンフォートは、商業施設のリニューアルオープンと共に退店をしてしまっていたのである。
私は急いで携帯電話を取り出し、荒木さんにメッセージを送った。
――お久しぶりです。今、建て替え後のビルに来てるんですけど、お店なくなっちゃったんですか?
メッセージには夕方まで既読がつかなかった。
日中、こんなに落ち着かず、何度も携帯を見たのは久しぶりだった。まるで好きな子にメールを送って、今か今かと返事を待っているときのような気分だった。
そして夜遅くになって荒木さんから返事があった。
――久しぶり~。そうなの、閉店しちゃったんだ。店自体がなくなっちゃったのはほんとに悲しいよね。コンフォート卒業してもこんなに通ってくれてるのは久保ちゃんだけだから言ったら絶対悲しむしさ、ついつい言いそびれちゃって……。ごめんね。
2月に訪れたあのとき、遠くを見つめながらポツリと言葉を漏らした荒木さんはきっと店がなくなってしまうことを知っていたのだろう。元気がなかった原因に、今頃になって気づいた。荒木さんは私の倍以上の年月をこのお店で働いていた。店がなくなることの悲しさは私の比ではないだろう。それでも、人を気遣う優しさに、自然と胸が熱くなる。
――みんなと働けてよかったよ。今度、みんながいる各店に遊びに行ってあげて。私も待ってるからね。
荒木さんは既に前を向いていた。寂しさや辛さを乗り越えて、新しい場所で頑張ろうと毎日踏ん張っている。だったら私だけ、落ち込んでいる場合ではない。第二の家そのものはなくなってしまったけれど、家族は元気に働いている。私の中には4年間、メンバーと過ごした日々がちゃんと残っている。そこで学んだ「働く」ことの大切さを、今も活かして生きている!
――絶対に会いに行くので待っていてくださいね!
私は返事を打ち、すぐにスケジュール帳を開いた。
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