夫には言えない話
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:遠藤朝恵(ライティング・ゼミ平日コース)
「たいへん、遅れちゃう」
朝、洗濯機がちょうど1回転回り終えるころ、私はにわかに、そわそわしてしまう。
もうすぐ“男爵”がやってくる時間だ。
マンションの正面玄関からスタートして、みっつ目のカーブを回った辺りで、私たちはいつも会う。
約束はしていないけど、それは暗黙の了解。
夫が会社に言ってる束の間、毎朝来てくれる。
彼のことは男爵と呼んでいる。
なんとなく、“フェリッペ二世”みたいな白い襟がひらひらした出で立ちと、
鼻の下にくるんとした髭を描いたらすごく似合いそうだから。
勝手にそう呼ばせてもらってるけど、彼は怒らない。
ちょっと長めのウエービーなヘアに肘を地面と水平に左右に張って、船を漕ぐように
ゆったりとしたテンポで歩く姿もどことなく“男爵”っぽい。
彼の歳をはっきり聞いたことなかった。確信はないけど、たぶん私と同じリアルガンダム世代だ。
きっとシャアが好きだと思う。シャアをサブキャラ扱いすると、怒るタイプだとふんでいる。
ファッションはいつも同じで、短パンとTシャツ、上下黒。
彼と会うようになってもう3年以上経つけど、冬でもそれ以外見たことがない。
一途なタイプなのかもしれない。
じつはこの夏休みに、娘にだけ彼を紹介した。
「ほら、これが男爵だよ」とこっそり耳打ちしたら「あぁ〜〜〜」と納得していた。
別れ際に男爵はいつも、橋を私たちの家とは逆方向に渡る。
彼の後ろ姿を見送りながら「トランプの11みたいな人だね」と、娘は言った。気に入ったらしかった。
私たちはお互いのことを、ほとんど知らない。
気にならないと言えば嘘になるけど、仕事について詮索したこともない。
時間をずらしても毎朝9半くらいまでに行けば、必ず会えることを考えると、
お勤めじゃないことは確かなはずだ。
一度、家を出るのが遅くなってしまって、10時をとうに過ぎていた。
もう今日はいないだろうなと諦めていたら、4つめのカーブのスーパーの裏手にある
水上バスの船着き場に座って、スマホをいじっていた。
どんだけこの辺りを歩き回ってたのかしらと、びっくりした。
時間に縛られてなさそうなところからして、何かビジネスをやってるのか。
アスリートっぽくも見えなくないけど走ってないし。とってもミステリアスな人だ。
「どうしたの? 風邪でもひいたの?」
たまに朝、男爵が来ないと、心配になってしまう。
でもどんなに心配だとて私から連絡をすることはできない、だって……。
……だって
全く知らない、ただすれ違うだけのひとだから。
娘たちを学校に送り出し、洗濯機がちょうど1回転回り終えるころ。
毎朝、玄関の時計が8時にさしかかると私は一人でそわそわし始める。
さぁまもなく“皆さんの時間”が始まりますよー。
皆さんキャストの名前は、もちろん知らないけれど。
私は自宅で仕事をしていて通勤がない。
アポがない日は、気づけば一日中家にこもってしまう時もあるので、朝は必ず外に出て
自宅マンション周りの遊歩道を歩く。気が向けば走ってみることも、ある。
そんな時に必ずすれ違う、私の“皆さんは、とても個性的で気になる人たちだ。
いろんなひとがいる。
例えば、8時に必ずダックスフンドを散歩しながらエントランス前の植え込みで子どもを叱る
“8時のおじさん”。
通学中の小学生が石を投げ合ったりして、ちょっとでも植え込みに踏み込むと
「こらー! そこに入るんじゃない!」と子ども達を無遠慮に叱ってくれる、最近では珍しいタイプの人だ。
神経質そうなのが歩き方と声に出ている。
グラマーなボディにピタッとしたウエアを着てジョギングをする“不二子ちゃん”は、
藤原紀香っぽい顔立ちの可愛い子ちゃん。たぶんダイエット目的で走ってるんだろう、とても真面目そうで一生懸命。腰をひねって走るので、なんか朝からセクシーだ。
不二子ちゃんとすれ違った後に会える、津川雅彦ふうの白髪のおじさま、“社長”は、
散歩を終えてマンション内の中庭に入ると必ずいて、独特のストレッチが印象的。
身体を伸ばす際に出る唸り声はわりと大きくて、存在感を放っている。
ほかにも私が一人でいると必ず「おひとり?」と話しかけて来る“エツコさん”はじめ
男爵以下、個性的な皆さんは私の朝の散歩コース1.2kmを彩ってくれるレギュラーメンバーだ。
朝は彼らから始まると言っても、言い過ぎじゃあない。
なんならそれは毎朝の、連続テレビ小説を見るようなもので。
『半分、蒼い』のファンじゃないのに、なぜ主題歌が歌えるのかと聞かれたら、言葉につまる。
特別好きじゃないけど、朝の予定にもうすっかり入り込んでるものだから、見逃せないのだ。
数日前の夜、駅前のうどん屋さんでばったり男爵に会った。
胸が高鳴る。ガリガリ君でアタリ棒が出たような気分になったのはどうしてだろう。誰か教えて。
しかも、長いズボンを履いているのを見て、軽い感動すら覚えてしまった。
「似合う、似合うよ男爵! そういうのも、とってもいいじゃない!!」
心からそう話しかけたい衝動に駆られた気持は、なんとか押さえることができて、よかった。
もしかしたら彼は、娘たちの同級生のパパだったりしないとも言い切れないのだから。
本当〜に、よかった。
夫に話したら「何やってんの」とバカにされそうで、言えていない。
でもきっと夫にも、男爵や不二子ちゃんみたいに連続テレビ小説な人が、いるはずだ。
通勤や通学でいつもすれ違うあのひと。あなたの毎日にもいないだろうか。
ぜひじっと見つめて、心の中でニックネームをつけて呼んでみてもらいたい。
今までとは違った愛着を彼らに感じるようになる……かも? しれない。
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