父が癌だと聞いて感じた、実家との距離と温度差《プロフェッショナル・ゼミ》
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「今、少し、大丈夫?」
母の携帯電話からの着信に出ると、いつもより少しだけ緊張したような声で、そう言った。
「うん、大丈夫だけど、何?」
「昨日、お父さんが聞いてきた精密検査の結果なんだけど……」
言いづらそうに、母が言った。
「なんか見つかったの?」
「うん。その……癌みたいなの」
その電話のひと月程前に、息子が突然、
「おばあちゃんの家に行きたい」
と言い出した。夏休みの最終日だった。昨年度まで、私が小学生向けの通信教育の添削指導の内職をしていたから、母には、よく我が家に来てもらい、息子の遊び相手になってもらっていた。多い月では、月に10日くらい来てもらっていたので、息子は、母にとても懐いていた。今年度に入り、私は内職を辞めたので、母に来てもらう必要がなくなった。だから、会う回数が減って、息子は寂しがっていた。
「夏休みには、おばあちゃんの家に行こう!」
と、約束したことを、私はすっかり忘れていたが、息子は、覚えていたようだった。私の実家は、自転車で20分くらいの場所だけれど、暑い中、わざわざ行くのは、少々面倒だった。
息子がどうしても行きたいと言うので、電話で予定を確認し、午後から父が病院に行くけれど、それでもよければ来ても構わないと言われたので、しぶしぶ行くことにした。
実家に着くと、父と母が、笑顔で、息子と私を迎えてくれた。3人の笑顔を見ていたら、やっぱり来てよかったなと思った。
椅子に座ってパソコンをいじっている父の背中に向かって
「お父さん! 病院に行くんだって? どこか悪いの?」
と聞いてみた。
「そうなんだよ。実はね……」
と、体ごとこちらに向けて、話し始めた。
それによると、健康診断で、肝臓の数値が少しだけ基準よりも高かったそうだ。少し高くなり始めたのは5年位前だったけれど、かかりつけの医師が
「薬を飲んでいるせいだと思うから、大丈夫だよ」
と言っていたので、持病の薬が原因なのだろうと安心していたらしい。けれど、今年はその数値が、昨年よりも、さらに、ほんの少し高くなっていたそうだ。
「大丈夫でしょう」
そう言われて、帰されそうになって
「そうですか。だけど、できたら、検査してもらえませんか?」
と、自分から言ったそうだ。
「なぜか、ちょっと気になったんだよね」
お茶を飲みながら、少し他人事のように、父は言った。
「そうなんだね。そしたら?」
「超音波で検査したらさ、影が見つかったらしいんだよ」
「え? それで、今日はさらに検査するの?」
「うん。紹介状を書いてもらって、大学病院に行ったらさ、CTとMRIを撮ることになったんだよ。今日は、CTで、来週MRIみたい」
「そっか。何でもないといいね」
「そうだなあ。だけど、もう、80歳になるから、充分生きたし、もしもの時は、それはそれで仕方ないからな」
妙に達観したように、父は、にこやかに、そう言った。
息子は台所で母と何やら話し込んでいる。おそらく、夏休みに行った旅行の話でもしているのだろう。
こうして、父とゆっくり話すのは、久しぶりだった。前回、同じように、父と話をしたのはいつだったろう? そう考えていたら、その時話した内容が思い出されてきた。
「そういえば、お父さん、前に、『死ぬ気がしない』って言っていたね」
まだ深刻な状況ではない今のうちに、死生観のようなものを聞いておきたいと、ふと思って、気がついたらそんなことを口にしていた。
「そうだな。まぁ、もしも余命が言われてしまったら死ぬのが怖くなるかもしれないけれど、今自体は、死ぬことは怖くはないんだよ。それなのに、こんな、精密検査に行くなんておかしいなって思うんだ。ただ、体が痛くなったりすることやそのことで周りに迷惑をかけることをあまりしたくないなって思ってね。スーッといなくなるのが理想だけれど、なかなかそれって難しいらしいな」
そんな風に考えていたんだ。父の思いが聞けて、少し嬉しく思う自分に気づき戸惑った。そして、少し切なくなった。
「きっと大丈夫だよ」
そう言って送り出した。
その後、息子と母と私で、絵を描いたり、かるたをやって遊んだ。息子は、父が出かけると、急に、のびのびと動き回った。父のことは嫌いではないけれど、やはり、緊張するらしい。夕方、父が帰ってきたのを、
「お帰り」
と、迎えてから、また自転車を漕いで、家に帰った。
父も母も10年以上前に、それぞれ、直腸癌と乳癌を患い、信頼できる医師と出会うことができ、手術をした。その後、再発せずに元気に過ごしてきた。健康そのもの! というわけではないけれど、それぞれ持病を抱えながら、少しずつ老いを受け入れながらも、後期高齢者にしては、なかなか若々しく、イキイキと過ごしているように見えた。80歳になっても、ひとりで電車とバスに乗って病院へ行けることや、付き添いが必要な時は、父と母がお互いに行ってくれることに感謝し、私もこんな風に年を取っていきたいと思っていた。
「何でもなかったよ」
そんな風に報告を受けて
「よかったね」
と言うつもりだった。
だけど……
「今、少し、大丈夫?」
母の携帯電話からの着信に出ると、いつもより少しだけ緊張したような声で、そう言った。
「うん、大丈夫だけど、何?」
「昨日、お父さんが聞いてきた精密検査の結果なんだけど……」
言いづらそうに、母が言った。
「なんか見つかったの?」
「うん。その……癌みたいなの」
「ああ……そうか。そうなんだね……で、具体的に、どんな風に言われたの?」
「ちょっとお父さんに替わるね」
そう母が言って、父が電話に替わった。
「お父さん! びっくりしたよ!」
「そうなんだよ。何ともないのにさ」
父の体調はすこぶるよくて、癌と言われても、全くピンと来ていないらしい。
精密検査の結果を伝えてくれた医師は、父の質問
「癌ですか?」
と
「手術するんですか?」
に、それぞれ
「そうだね」
と答えただけで、あまり詳しいことは話してくれなかったらしい。自分では担当できないからなのか、3週間後に、別の有名な医師が、今後の対応を説明するからと言って、その日は帰されたと言っていた。
「そっか。わかったよ。教えてくれてありがとう。その、なんていうか、お大事に」
そう言うしかなくて、電話を切った。
その電話の数日後、息子の小学校の運動会があって、父と母が見に来てくれた。運動が苦手なはずの息子のキレキレのダンスをみて、母のみならず、父も泣いていた。来年も見に来てもらえるかな? そう思って、ちょっと胸が痛くなった。
今後の対応の説明を聞きに行くのは、父と母だけで大丈夫だと言うから、私は行く予定ではなかった。だけど、その日の1週間ほど前に、父から電話をもらい、一緒に病院に行って欲しいと言われた。2つ年上の兄も仕事を抜けて立ち会うから、できたら家族全員で聞いて欲しいということだった。スケジュールを確認すると、どうにか行けそうだったので、了承した。
「その後、どう? 体調は?」
「すこぶる元気なんだよ。むしろ、あいつの方が気にしちゃってな」
そうだ! 兄は、とても心配性だった。おそらく、家族全員で話を聞こうと言ったのも、兄だと感じた。
当日になり、私は、父と母と、実家の最寄りの駅のホームで待ち合わせた。我が家の最寄りの駅と、実家の最寄りの駅は、ひと駅違ったから、一本早めの電車に乗って、待ち合わせ場所へ向かった。ホームで、父と母の背中を見つけて
「お父さん!」
と声をかけると、
「おお! 今日はありがとな!」
と言って、笑顔で、私の手を握った。手を握られて、正直、驚いた。こうして待ち合わせをしたことは今までもあったけれど、手を握られたことは記憶になかったから……。驚きと照れくささを感じるのと共に、父が弱気になっているのかもしれないという予感がした。
電車がホームに入って来た。人のことを考えず、さっさと乗り込んでしまうところはいつもと変わらず、少しホッとした。何の話をしようかと迷い、息子の近況報告をした。3駅で電車を降りて、バスに乗り換えた。だんだん病院が近づくに連れ、じわじわと緊張してきた。
精密検査の結果を伝えてくれた医師は、なぜ、詳しい説明をしなかったのだろうか? 今日予約している別の有名な医師は、凄腕だという。その必要性は、父が重症だからだろうか? しかし、本当に重症ならば、3週間も待たせないのではないだろうか? それとも、もう、手の施しようがないのだろうか?
考えても仕方のない疑問が湧いては、答えが出ないまま萎んでいった。
病院に着くと、兄がもう先に到着していた。受付を済ませて、外科のロビーに行くと、座るところがないくらいに人がたくさん待っていた。10:30の予約だったけれども、もしかすると、相当待つだろうか? 息子がこの日に限って13:00に帰ってくる予定だったので、ソワソワした。すると、3番目に呼ばれることがわかり、ホッとした。
ようやく空いた席が、ちょうど2席分ずつ分かれていたので、私は兄の隣に座った。こうして、兄と2人で話をするのも久しぶりだった。
「あれから、肝臓癌について本とか読んだ?」
兄に聞かれて、まずいと思った。
「ネットで少し調べたけれど、あまりよくわかっていないんだ。申し訳ない。」
そう答えながら、兄との温度差を、ひしと感じた。兄はとても心配性なので、親が病気になると、それについてたくさん本を読む。10年以上前に、両親に癌が見つかった時も、本人たち以上に本を読んで、知識を得ていた。今回も相当調べたらしい。
「そう。まあ、いいんだけどね。人それぞれだから……」
悪気はないのだろうが、その言葉が、ぐさりと、胸に刺さった。
「うん。いろいろ調べてくれたんだね。ありがとう」
そう言うと、兄が調べたことを教えてくれた。
肝臓癌は、はじめから肝臓にできる原発性肝臓癌と、他の臓器から転移して起こる転移性肝臓癌があること。肝臓癌は手術後、3~5年以内に約80%が再発すると言われていることなどを教えてくれた。
「有名な先生が担当だというから、重症なのかな? と思ったり、だけど、3週間もあけられたってことは、大したことないのかな? と思ったりさ。よくわかんないよね」
だから、まだ、そんなに深刻に思っていないんだと、言い訳をするように、私が言うと
「そうなんだよな」
と兄が言った。
「まあ、今日これから、ある程度のことはわかるんだろうけれどね」
そう言いながら、もしかしたら、私は、薄情なのかもしれないと感じた。
兄は、昨年、両親を北海道旅行に連れて行ってくれた。兄は、独身で、両親と同居している。そして、今年は、沖縄に連れて行ってあげたいと旅行を企画していた。それが、ちょうど来週で、手術前に、もしかしたら最後の旅行になるかもしれないからなるべく連れて行ってあげたいと思っていると言った。
「お父さんとお母さんを旅行に連れて行ってくれてありがとうね」
そう私が言うと、兄は
「それぞれできることをやればいいんだよ。俺は、結婚してないから、親に孫を見せてやれない。それを、おまえが、ちゃんとしてくれているから、よかったと思ってる。おまえはそれで充分親孝行しているんだよ。だから、自分が、親にしてあげたいこと、自分で納得できることをやればいいんじゃない?」
対人関係が苦手で何度も職を変えた兄が、親と何度もぶつかって喧嘩していた兄が、家族を思いやってくれている発言に、妹のくせに、生意気にも、成長を感じ、胸が熱くなった。
理由はよくわからなかったけれど、父が癌であると聞いてから初めて、涙が出てきた。
「お父さんに何ができるか、もっと真剣に考えてみるよ……」
話に熱中して声がだんだん大きくなる兄を、何度かたしなめながら、待ち続けた。しばらくして、父の名前が呼ばれた
「家族も一緒にいいでしょうか?」
父が、そう断って、私たちも診察室に入った。
テーブルとパソコンを挟んで医師と両親が座り、兄と私は、少し離れた壁際のパイプ椅子に座った。
担当の医師は、本人以外に家族が3人も入って来たことに、少し驚いたようだった。私は、その医師の反応に、所在なさを感じつつも、もしかしたら、これは、大丈夫ってことかもしれないと思った。
「えーっとね、映像を見せてもらったんだけど、1cmの腫瘍が見つかったみたいだね」
「あ、そうですか」
「検査をしたのが、2か月前だから、今日もう一度検査させてもらって、大きくなっていないか見て、どうしようか決めましょう」
「えっと……手術はするんですか?」
「1cmだとね、手術できないのよ、小さすぎて」
「あ、そうなんですか。これは、癌なんですか?」
「まあ、疑いはあるよね。だけど、もし、1cmのままだったら、手術はせずに、そのまま経過を見るかもしれない。とにかく、来週にでも結果を聞きに来てよ」
その後、来週は、できるなら、旅行に行きたいと思っていることを医師に伝えた。許可をもらえて父はホッとしたようだった。そうして再来週に、結果を聞きに来ることになった。
「わがままを言ってすみません」
「いいんですよ。家族旅行は大事なことですから。では、外でお待ちください。検査の準備ができたら呼びますから」
「はい、失礼します」
そう言って診察室を出た。
私たち家族は、呆然として
「で、大丈夫ってことなんだよね?」
「うん。そういうことだよね」
「よかったねって言っていいのかな?」
「うん。いいんだよね」
そんなことを確認しながら、だんだん、ホッとしていった。
「また、今日の検査の結果次第でどうなるかわからないけれど、とりあえず、一刻を争うような事態ではなさそうだよね。わかった。じゃあ、ちょっと先に行くね」
会社に戻る兄を見送った後、父と母が、私を挟んで椅子に座った。母が
「あーよかった」
と言って、私に寄りかかってきた。私からは母の表情は見えなかったけれど、安堵に包まれていたように感じた。なかなか顔をあげないので、もしかしたら、泣いているのかもしれないと思って、肩を抱いた。泣いてはいなくてホッとした。
「詩吟をね、辞める覚悟をしていたの。お父さんが、入院して手術をしたら、私が、どんなことがあっても守っていかないといけないと思ってね……。この3週間も、毎日、お父さんと散歩してさ、昨日は、もうこれが一緒に散歩できる最後かなと思ったりしていたんだよね。あー本当によかった。お父さんもね、即手術だったらと、もしものことを考えて、3人に手紙を書いていたんだよ」
母は、急に、饒舌になっていた。緑内障のせいで視野が狭くなって落ち込んでいた時に、見つけた唯一の趣味の詩吟を辞める覚悟をしていたんだ。その覚悟を知って、家族が病気になるというのは、そういうことなのかと、改めて感じ、自分の覚悟のなさが申し訳なくなった。
「おれが、今朝言っていたこと当たったな。なんか、大丈夫な気がしていたんだ」
そう父が得意気に言ってくれて、救われる思いだった。
最後まで検査に付き合うと、息子が学校から帰ってくる時間に間に合わないので、先に帰ることにした。
「今日は本当にありがとう」
そう言ってくれた父と握手をし
「美香がいてくれて本当によかった。頼りにしているよ」
と、言ってくれた母とも握手をし、病院を後にした。
バスを待ちながら、とりあえず、よかったな! と素直に思った。それと同時に、結果的には、今後の対応の説明を、家族全員で聞きに来てしまったことが、何だか大げさで、滑稽にさえ感じた。
3週間前の精密検査の結果を伝えてくれた医師の曖昧な説明のせいで、私たちがどれだけ苦しんだと思ってるんだ! と憤ろうとして、はたと気づいた。父、母、兄は、すごく真剣に捉え、最悪の結果まで考えて振り回されてしまったけれど、片や、私は、日常に精一杯で、父のことを思い出すのは、1日のうちのほんの少しの時間だったじゃないか! それなのに、その医師のことを責める資格は、きっと、私にはないと思った。
なんだか、自分がひどく冷酷な人間になってしまったようで、急に、つらくなった。
今日の医師が大事なことだと言ってくれた「家族旅行」に、私は行かない。
それが、嫁に行くということなのか……。数年前に、両親がお墓を買って、一緒に見に行った時に、私はここには入らないんだと思った時と同じ、なんとも言えない寂しさに襲われた。
だけど、私は、父も母も好きだし、神経質で心配性でちょっとこだわりの強い兄のことも嫌いじゃない。私は、彼らの元に生まれ、一緒のものを食べ、笑い、泣き、そして共に長い時間を過ごしたんだな……。
そして、ここに「家族」として呼ばれ、頼られているんだ。それでいいじゃないか。それで充分じゃないか。そして、父と語り合える時間がもう少し増えたんだ。有り難いと思わなきゃいけない。
家を出たこと、そして、大切なものが増えたことによって、気持ちの比重は少し変わってしまったかもしれない。温度差はあるかもしれないけれど、だけど、やっぱり、私は、この人たちと「家族」で本当によかったなと思った。そして、私の守るべき、かけがえのない息子の帰りに間に合うように、家路を急いだ。
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「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、店主三浦のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。
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