バスでカメラを紛失! それでも韓国は優しかった〜「冬季五輪に魅せられて」——天狼院書店特派員ライター・関谷智紀が行く!ピョンチャン五輪紀行〜
川も凍る!? マイナス20度の車中泊
大変お恥ずかしい話なのですが、私、ピョンチャン五輪で、命の次に大事なカメラをバスの中に忘れてしまいました。今回はその顛末についてお話しします。
2018年2月16日の朝6時、私は車の中で目覚めました。隣には韓国在住の友人、ゲンさんが寝息を立てています。私は彼を起こさないように静かに車のドアを開け、外に出ました。
「うわっ、寒っ!」
思わず口に出てしまうくらいの寒さ。気温はマイナス20度くらいでしょうか。
すぐ近くを川が流れているのですが、半分凍った川から、白い湯気のような煙が立ち上っています。川霧です。
そして、隣には水をまいて作ったらしき、天然のスケートリンクができていました。昼間、子どもたちがスケートをして遊ぶのでしょう。
私たちはオリンピックのスキー会場近くの駐車場で車中泊をしていたのです。この河川敷を利用した駐車場は、スキー会場へ向かうシャトルバスの発着点ともなっており、車で来る人はこの駐車場に自家用車を置いて、会場へはバスに乗り換えるという仕組みになっています。
流石に時間が早すぎるのか、私たち以外には誰もいませんでした。
だだっ広い河原に、車が1台ぽつんとあるだけ。
韓国の定番、砂糖のたっぷり入ったミルクコーヒー
ぼーっと、ゲンさんと川を眺めること約1時間半。何台かの車がやってきました。どうやら、ボランティアスタッフたちのようで、私たちを見つけると、大きな白いテントを指さし、手招きしてくれました。
その白いテントには、英語で「Shelter」(シェルター)と書かれたバナーが貼られていて、中に入ると、ストープに火がつけられようとしている所でした。そして、30歳くらいのメガネの男性が紙コップに入ったコーヒーを差し出してくれたのです。
わたしはありがたくそれを受け取り、一口。砂糖のたっぷり入ったミルクコーヒーが韓国の定番。その暖かさと甘さが身体をほぐすかのように染み渡っていきました。
「どこから来たの?」
「東京です」
「それはそれは。ピョンチャンにようこそ。でも、ここは寒いでしょう」
「そうですね。いやあ、寒いとは聞いていましたが。川が凍っているとは……」
お互い中学生クラスの英語ですが、そんなたわいもない会話を続けていたところ、突然、そのメガネの男性は全く想像もしていなかった質問をアッパーカットのように投げかけてきました。
「What‘s your philosophy?」 (アナタの哲学は?)
「へ? 哲学ですか? いきなりガツンと来ましたね」
寝起きで頭も回っていないのに、そんな難しい質問を……。
そもそも普段、哲学なんて意識もしていないし、回らない頭でなんとか返した答えが……、
「まあ、毎日楽しく過ごすってことですかね。あと、快食快眠快便です」
私の英語が変なのもあったのでしょう。メガネさんはいぶかしげに首をかしげ、「そうかい」といった感じで微妙な笑みを返してくれたのでした。
「お、今日最初のバスが来たぞ! アレに乗ればスキー会場に行けるよ」
「ありがとうございます。コーヒーご馳走様でした!」
「いえいえ、では楽しんできてください」
私たちは彼に手を振り、バスに乗り込みました。
会場までの所要時間は約30分。私たちの他に数名を乗せてバスは会場に向かいました。そして暖房の効いた車内で、私は睡魔に襲われ、夢の中へ。首に痛みを感じていたためか、無意識に首にかけていた一眼レフカメラを外していたようなのです……。
バスがスキー会場に到着したころ、ゲンさんが私の席まで起こしに来てくれました。
見渡せば、オリンピックのバナーやフラッグが飾られたスキー会場が目の前に!
寝ぼけていた私は、「よっしゃ、行きますか」と会場へ一目散、駆け出していました。
私が座っていたシートには、大きな一眼レフカメラが鎮座していたことなどつゆ知らず……。
頼みのチムジルバンがどこも満員。ソルラル恐るべし
さてさて、そもそもなぜ私とゲンさんがこの日、車中泊することを強いられたのか? それはなんといってもオリンピックと韓国の旧正月ソルラルとがかさなったことにほかなりません。
2月15日はオリンピックとソルラル四連休が重なる初日。
「いやー、もうソルラルは韓国内では民族大移動の日だから。帰省する人もいるし、連休を利用して旅行に行く人もいるし。なんで、この期間にオリンピックやるのかね」と首をかしげていたゲンさんでしたが、「KTXのチケットも売り切れで取れないし。立席で行くよりは、朝早くに車で行けば大丈夫でしょ」と朝6時にソウル市内に集合し、オリンピックのためにできたという新しい高速道路で会場へ向かうことに。
正直、前日までのハードな移動で身体が悲鳴を上げていた私にとってはこの申し出は非常にありがたく、涙がでるほど嬉しかったのです。
ところが、彼の運転でソウル市内を出発した直後、私は肝を冷やす事態に遭遇。前の車がノーウィンカーでググッと割り込んできたのです。
「ちょっと、韓国って運転荒いんじゃないですか」とハンドルを握っているゲンさんに聞くと涼しい顔で「まあ、このくらいは日常茶飯事ですよ。せいぜい、クラクションを派手に鳴らすくらいで、まあ大きなトラブルにはならないかな。デモ細かい接触くらいの事故はしょっちゅうですね」と言うではありませんか。
いやぁ、私なら絶対運転できません。むちゃくちゃ怖いです。
しかし、韓国在住歴の長い彼は、平然と車を東へと走らせていくのでした。
途中サービスエリアに立ち寄りながら、車は五輪会場を目指します。サービスエリアは日本と似たような作り。簡素なレストランや食べ物の出店があり賑わっています。
運転しながらゲンさんは「思ったより混雑していないね。やはり、住民の少ない東海岸へ向かう路線だからかな。ソウルからプサンに向かう南北の大動脈はこの時期とんでもなく混んでいて、普段は3時間のところ、渋滞で10時間かかることもあるからね」と交通事情を語ってくれました。
ソウルからカンヌンまでの道のりは普段なら2時間強くらいですが、この日はやはり渋滞にはまり3時間半ほど費やしました。それでも「思ったより混んでなかったね」とゲンさん。ソウル−プサンの混雑ぶりはいったいどのくらいのものでしょうか……。
そんな感じで、2月15日の試合観戦を終え、「この後どうする?」と相談したところ、「明日午前のアルペン滑降のチケットあるなら、1枚当日券買って一緒に見ようか」とゲンさんから提案が。「どうせ今からソウルに戻っても、深夜になることは確実。ならばこっちのチムジルバン(韓国式サウナ)に泊まって、明日午前の試合に備えよう」となりました。
ところが、そのチムジルバンが大混雑。何軒か巡ってみましたが、どこも「今日は満員だから無理」と追い返されてしまう羽目に。
そんなこんなで、泊まるところがまったく見つからない!
結局、彼と私は駐車場で車中泊し、マイナス20度の寒さに目が覚めるという、なんともまあ、端から見れば「こいつらよくやるわ」という経験をすることとなったのです。
「やっちまった……」
さて、スキー会場に入って着席し、何人かの選手の滑りを見て、「そろそろ写真を撮るか」と思ったときのこと。バッグから望遠レンズを取り出し、さあ標準レンズと取り替えるぞ、と思ったときにカメラがないことに気づいたのです!
ここで、大慌てすればよかったのに、寝ぼけていた私は、
「あ、カメラを車に忘れてきちゃった……」
とゲンさんに伝え、「まったく僕はアホだねー」と苦笑しつつ観戦を続けたのです。
観戦後、駐車場に戻り、車の中のカメラを探すと……、
「ない!!」
一気に頭からさーっと血の気が引いていくのがわかりました。
「あれ? 朝出るときにカメラ持って出たのか、オレ。どこで置いてきた? ん、もしかして行きのバスの中?? これはヤバいぞ。まだ会期1週間以上もあるし……。どうすんの、これ、この後写真撮れないじゃん」
ぐるぐると駆けめぐるさまざまな思い。撮り溜めたデータは時間があれば、ハードディスクにバックアップするようにしていましたが、ここ数日は忙しすぎでその作業もしていない……。
うわー、やらかした……。体力的にハードな日々が続くと思考力も一気に低下します。気をつけてはいたのに、判断が甘かった。
こういったトラブルがあると自分の存在がひどく情けないものに思えてきます。
私は、その場にしゃがみ込んでしまいました。
「やっちまった。たぶん行きのバスの中でカメラ置きっぱなしにしたんだ」
と話すと、
「そうか。まあ、とにかく調べてもらったほうがいいね」
とゲンさんがボランティアスタッフを呼ぼうとすぐに動いてくれました。朝に話をした白いテントの中に座っていたスタッフに事情を説明します。すると、あのメガネさんがすっくと立ち上がり、
「OK。では探してみます。君らはここでコーヒーでも飲みながら待っていてください。大丈夫、きっと出てきますよ」
と笑顔で私に声を掛けると、トランシーバーを持ち、小走りでテントの外へと掛け出していきました。
待っている間、不安を抱えながら他のスタッフとも話をします。
「うーん。このあたりの人たちはいい人たちばっかりだよ。カメラが席に置いてあっても、きっと運転手か、スタッフに届けてくれるよ。大丈夫。でも、たしかにオリンピックだからね、地元以外の人もバスには乗っていると思うし。そういう人のなかには、まあ、ふとどきな人間もいるかもしれないけどね。まあ、とにかく待つことだね」
と、アホな私をみな慰めてくれます。優しさが身にしみます。
先ほどの、メガネさんはどこからか、バナナ牛乳のパックを持ってきて、私に手渡してくれました。韓国人はバナナ牛乳がけっこう大好きで、どこのコンビニにも置いています。
その、甘―い牛乳を飲みながら、私はひたすら待つしかありません。でも、ボランティアスタッフの優しさに触れ、身体が温かくなったのはストーブの火になっただけが理由ではなかったようです。
1時間半くらい経過したでしょうか。
「もしカメラが出てこなかったら、もうソウルで買い直すしかないね。どのあたりに行けば買えるかな」
「そんな弱気になるなよ。買えるところはあるけどさ。もう少し待ってみよう」
巻き添えになって大変なはずなのに、ゲンさんも私のことを気づかってくれます。私はみんなの優しさにひたすら心の中で頭を下げるばかりでした。
そして、彼は親指を立て、笑った
そのとき、メガネさんが息せき切ってテントの中に飛び込んで来ました。
手には、トランシーバーを握りしめ、何かしきりに叫んでいます。
数分後、トランシーバーのスイッチを切った彼は、ふうっとため息をつくと、私の方を向いてこう言いました。
「君のカメラ見つかったよ。今、スキーの会場にあるらしい」
そう言うと、にっこり笑って親指を立て、軽く上下に振りました。
一瞬、何が起きたかわからなかった私でしたが、事態を飲み込んだ瞬間、思わず彼に両手を差し出し、がっちりと握手。
「だから言ったじゃないか。必ず出てくるって」
とメガネさんも得意げです。
その後わかったのは、やはり私がカメラをシャトルバスの中に置き忘れていたのは確かなようで、バスが1往復して戻ったときに、乗り込んだ観客が「なんかカメラがあるんだけど」と運転手に申告。運転手は「これは会場に届けたほうがいいに違いない」と会場に戻ったときに警備本部に持っていってくれたそうです。
で、そんなことはつゆ知らず、私は車に忘れたと思って駐車場に戻って気付いたという次第。
多くの地元の人たちの優しさに助けられ、私のカメラは会場の警備本部で、助けを待ちわびていたようです。
「とりあえず、僕の車に着いてきて。警備本部まで案内するから」
メガネさんは、わざわざ自分の車を運転して、私たちをカメラのありかまで案内してくれました。
急いで車を走らせてくれるメガネさん。その気持ちは嬉しいのですが、運転が激しくてカーレーサー並みなんですけど……(笑)。
警備本部で無事カメラを手渡され、改めてメガネさんと握手です。
いつかお礼がしたいと、メガネさんの連絡先を聞いたところ、地元自治体の職員の方のようです。「本当に出てきてよかったよ。悪い思い出を持って帰ってもらいたくはなかったからね」と、彼も嬉しそうに言ってくれたのが、心に沁みました。
もし、また会えるなら
今回の五輪取材では、こういった韓国のボランティアのみなさんの優しさに触れる機会が数多くありました。
いつもフレンドリーで、笑顔を絶やさず、それでいて自分たちも充分にオリンピックを楽しんでいる様子が伝わってきて、カメラを向けると喜んで笑顔をレンズに向けてくれます。
五輪の期間中、草の根レベルでは、報道されているようなネガティブな話題なんて全く感じないくらい、ボランティアさんたちは非常に優しくて情のある対応をしてくれていました。
もし、メガネさんにまた会うことができたら、今度はあの質問に、
「私の哲学は、感謝を忘れずに日々を過ごすことですよ」
と笑顔で伝えたいなぁ。
そんなことを考えながら、私は車中からオレンジ色の明かりに照らされたソウルの街並みを眺めていたのでした。
【プロフィール】
関谷智紀(せきや・ともき)
フリーライター。大学卒業後、TV制作会社にてスポーツ中継や情報番組などのディレクターをしていたが、会社解散にともない紆余曲折を経て情報誌のライターになり、グルメのお店情報から経済関係まで記事を執筆。その後、単行本・ムック本の企画・ライティングも担当。スポーツライターとしては、アイスホッケーをはじめとした冬季スポーツ、バスケットボール、野球などを中心に取材を続けている。
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