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どんなにクズでも「ごめんなさい」と「ありがとう」だけはきちんと言える人間になれ《川代ノート》


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昔から、「ごめんなさい」と「ありがとう」だけはきちんと言える人間になれと育てられてきた。

私の母は、しつこいくらいに礼儀にうるさい人だった。律儀で、義理人情に厚く、他人に情けをかける。卑怯なことが大嫌い。竹を割ったような性格というのだろうか、とにかく私が筋の通っていない行動や、人の気持ちを理解しない行動をとると、ひどく怒った。「その行動は、人としてはずかしくないかどうか」、ということを、幼いながら、とても強く意識しながら行動していたような気がする。
どこの武士だよ、と今となっては思うのだけれど、母は、「矜持」をとても大事にした。ただのプライドではなく、誇り。人としてどう生きるか。自分が自分を客観的に見て、恥ずかしくはないか。自分なりの強い美学を持っていた。それを幼い私にも少しずつ、教えてくれていたのだと思う。

幼い私と母の間には、暗黙の、不思議なルールがあった。

「あのね、お母さん」

私は仕事から帰ってきた母に会うと、もじもじしながら母に話しかける。

「何?」

母は、問い詰めるでもなく、急かすでもなく、ただ私の次の言葉を待っている。

「あのね……今日、おさむくんに嘘ついちゃったの」

「そうなの。どうして?」

「怒られるの怖くて、本当のこと言わなかったの。嘘ついたの。ごめんなさい」

「そっかぁ。嘘ついちゃったのは、残念だったね」

「うん」

「でも、お母さんに正直に言ったのは、えらかったね」

「うん。ごめんなさい」

「いいんだよ。さきちゃん、正直に言ってくれて、ありがとう」

そうして、母に話を聞いてもらって、自分のしてしまったことを謝って、泣いた。

私は自分のしてしまったことに対して、「ごめんなさい」と言い、母は、私が正直に告白したことに対して、「ありがとう」と言った。

今となっては、どうしてあんなに馬鹿みたいに真面目でいられたのだろうと不思議なのだけれど、幼い頃の私にとって、母は「懺悔室」だったのだ。
友達にいじわるをした。先生に怒られたくなくてごまかした。正直に言えなかった。クラスメイトに優しくできなかった。

その日にあった、もやもやした「後悔」の気持ちを吐き出すために、毎日母に、懺悔していた。「いい」か「悪い」かで分別したら、確実に「悪い」に分類されるようなことを、私はわざわざ「ごめんなさい」と言うために、母に告白していた。

普通の子供というのは、自分のやってしまった過ちというのは必死で隠すものだろうと思うのだけれど、あの頃の私にとって、それは当たり前のことだった。母はその話を聞いてもガミガミ怒ったりはしなかったけれど、毎回の懺悔の時間は、恐怖だった。怒られるかもしれない、嫌われてしまうかもしれない。そんな不安を抱えながら母のところに向かうときは、いつも足ががくがくと震えた。でも罪を告白せずに、自分の胸の中にとどめておくことは、もっともっと恐ろしく感じた。まだなんと呼ぶかも知らない感情だったけれど、あのもやもやとした、なんとなく抱えていると不安になるような、自分が嫌いになりそうな、あの気持ちを、心の中に抱き続けているのは嫌だった。気持ちが悪かった。だから母の前で全部吐き出した。

そういう習慣の中で生きていたから、私は、「正しいこと」と「間違っていること」に対して、ひどく敏感な人間に育った。

よく覚えているのが、私が小学生の頃の、漢字テストのことだ。

先生からも親からも友達からも「いい子」と言われる模範的な生徒だった私は、ほぼ毎回満点を取っていた。おとなしくて、真面目。何事にも一生懸命。学級委員を選ぶときには必ず「さきちゃんがいいよ」と推薦されてしまうタイプ。周りからの、その期待を、裏切りたくはなかった。
だから、どうしても満点をとりたかった。満点のテストを見せて喜ぶ母の顔が浮かんだ。

そのテストは、ふりがながふってあって、それに相当する漢字を書きなさい、というものだった。

全部で10問。
順番に、筆圧の濃い字で書いていく。概ね、わかる。ほっとした。

けれど、順調だった鉛筆が、ある言葉に差し掛かった時、止まった。

「こくばん」というふりがなに当たる漢字が、どうしても、思いつかなかった。

どうしよう。

私は真っ青になった。
これまで漢字テストで間違ったことはほとんどなかった。いつも満点だった。毎日母と一緒に練習しているのだから当然だ。
でもわからなかった。いくら考えてもわからなかった。

国ばん?

とりあえず思いつく漢字を書いてみたが、どうも違うような気がする。
どうしよう。

教室の天井を見ても、こめかみのあたりをおさえても、思い浮かばなかった。どこかに書いてあるんじゃないかと思って、教室を見渡したが、「こくばん」に当たる漢字は書いていなかった。

満点、とりたい!

そう思って、何度も何度も、ありとあらゆる角度で頭をひねったり、目をこすったりする。

「……あっ」

私は心の中で、小さく悲鳴をあげた。

「黒板」

斜め前に座っている男の子の答案用紙が、目に入ってしまったのだ。

見た瞬間、私は、ああそうだ、その字だ、と思った。

そうだ、そうだ。黒い板だから、黒板だ。
なんで思いつかなかったんだろう。散々練習したのだからパッと思いついてもいいようなものなのに。

私は、衝動的に、答案用紙に「黒板」と書いた。

けれど、はあ、よかったとため息をついてからすぐに気がついた。

あれ。
これってもしかして、カンニング、ってやつ、かな?

もちろんカンニングなんかしたことなかった。でも自分がそれをやったのかもしれないと思うと一気に血の気が引いた。
カンニングなんて、ずるだ。嘘だ。
やっちゃだめなことなんだ。
「正しい」か「正しくない」かで言えば、絶対的に「正しくない」ことなんだ。
そんな卑怯なことしちゃいけないんだ。

咄嗟に、母親の顔が浮かんだ。

満点を取って、喜ばせたい。
ずるをした、なんて、思われたくない。

二つの気持ちが、せめぎ合いをしていた。

どうしよう。

どうしようどうしようどうしよう。

頭の中で、悪魔のささやきが聞こえる。

「別に気にすることないって。たかが漢字一つじゃん。第一さ、カンニングするつもりなんかなかったじゃん。たまたま、前の子の答案用紙が見えちゃっただけじゃん。あんたは悪くない」

そうかな。そうだよね。カンニングじゃないよね。

「はーい、あと1分くらいで回収しますよー」

先生の声が、教室に響く。
小さな私の手は、消しゴムを握りしめたまま止まっていた。

「これって別にカンニングじゃないよ。覗いたわけじゃないんだし。もしかしたら、あれを見なくても、5秒後に自力で思い出していたかもしれない」

追い打ちをかけるように、悪魔のささやきが聞こえる。

周りの子は、まだ終わらないのかとそわそわしたり、あくびをしたりしている。

みんなは、「黒板」を書けたのだろうか。

どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。

そうだ。
別に私はカンニングしようとしてしたんじゃない。ただ見えてしまっただけだ。私は悪くない。あんな風に答案用紙を丸見えにする子が悪いんだ。

私は、悪くない。

私は、ついに決心して、消しゴムを机に置いて、答案用紙を裏返した。
いいんだ。

いいんだ、これで。
だってこれで、満点だもん。お母さん、喜んでくれるもん。
大丈夫大丈夫、たぶん、いや絶対、私はあれを見なくても「黒板」を思い出していた。

大丈夫。

やけに、喉の奥が、乾いてくる。

「はーい、じゃあ鉛筆を置いてー」

先生の大きな声が響き、みんな鉛筆を置く。寝ていた子は顔を上げる。答案用紙の裏に落書きをしていた子もいた。

後ろの方の席の子から、前に答案用紙を回してくる。

大丈夫、大丈夫。
大丈夫。

誰にもバレてない。
誰も、私があの子の答案用紙を見て書いたなんて気づいてない。
大丈夫。

前にどんどん、紙が回ってくる気配がする。
ドキドキする。
心臓の鼓動が止まらない。

どうしよう。

そのときふっと一瞬、「ありがとう」と言う母親の顔が脳裏に浮かんだ。

そして自分じゃない、よくわからない何かが、衝動的に湧き上がってきて、気がつくと私は消しゴムを取って、急いで答案用紙の「黒板」の字をごしごしと消していた。

「はい、さきちゃん」

後ろの子から順番が回ってきて、私はそのまま、テストを前に回した。

心臓が早鐘を打っていた。「こくばん」の欄だけ空欄になった私の答案が、どんどん前に運ばれていった。

満点じゃない。
私、満点とれたかもしれないのに、自分の手で、満点の可能性、消したんだ。

自分でも、どうしてそんな行動に出たのかわからなかった。

でも先生が私の完璧じゃない答案を受け取るのを見て、私はひどくほっとした。
ああ、よかった、これでよかった、と思った。

 

 

今でも、自分がずるをしそうになると、あの頃のことを思い出す。
幼い私が、必死に罪悪感と戦った時のことを。8つにもなっていなかった私が、一生懸命に、自分の感情と向き合おうとしたことを。

今思えば、たかが、カンニングだ。たいしたことじゃない。よくある話だし、それに第一、あのテストはそこまで真剣なテストではなかったのだ。ちょっと力試しくらいのテストだったのだ。だから先生も簡単に近くの子の答案が見えてしまうようなずぼらな環境でテストを行ったのだ。たとえ先生にばれていたとしても、私はそこまで怒られていなかっただろうと思う。深刻になるほどのことではないのだ。

でも、あのときの私にとっては、あれは、いけないことだった。「ずる」だった。とんでもない罪だった。私は真剣だった。真剣に自分と向き合い、なぜそれがダメで、なぜやってはいけないかを必死になって考えていた。

あの時の私を、馬鹿だな、とも思うし、一方で、羨ましくも、思う。

あれほどいちいち、小さなことで一喜一憂し、「これは正しいか、正しくないか」と真剣に考えていたあの頃の私のことを、とても眩しく感じる。
今の私は、そこまで真剣に、正しいことと、正しくないことについて、ちゃんと考えられているだろうかと、自問自答する。

大人になると、簡単に自分の過ちを認められなくなる。嘘をつくことが、悪いことだという感覚も薄くなっていく。徐々に、「いいこと」と「悪いこと」の境目が、ぼやけていく。
自分は何を信じたくて、何を信じたくないのか、わからなくなってくる。そして、徐々に思う。

別に、この世の中に、「正しい」も、「正しくない」も、存在しないんじゃないか、と。

そんなことにいちいち構っているなんて時間がもったいなくて、そんなくだらないことについて真剣に考えるんだったら、自分の将来とか、仕事とか、お金のこととかについて考えたほうが有益だ、と。
「正しい」か「正しくない」かを考えていたはずの思考は徐々に、「得」か、「損」かを見分ける思考に切り替わっていく。

こっちの方が、コスパがいいな。
こっちだと、のちのち、損するから、あっちを選んだほうがいい。
こっちのほうが、楽だろうな。
いかに、正しい自分でいられるかということより、いかに、他人よりも得するか、いかに「勝ち組」と呼ばれる人生を送れるかということに、神経が向くようになる。

重要なのは、正しいか正しくないかじゃなくて、自分が幸せかどうか、だよな。
「得」「勝ち」という言葉を、「幸せ」という綺麗な言葉にうまいこと変換して、自分を律することを忘れてしまう。

そして、そのうちに、一つの感情が、極端に鈍っていく。使い物にならなくなっていく。

恥を、知らなくなる。

「周りからダメなやつと思われたくない」「一目置かれたい」という、いらないプライドはむくむくと育っていくくせに、「自分は人として間違った行動をとっていないか」ということを判断する矜持や繊細さは、失われていく。消えていく。
そして、そういう感情が消えても、気がつかない。なぜなら、この世の中は、正義感なんかなくても生きていけるからだ。
何が正しくて、何が正しくないかがわからなくても、この世では簡単に生きていけるからだ。むしろ、何が得で、何が損なのかを見極められる人間のほうがよっぽど、生きやすいようにできているのだ。正直者が馬鹿を見る、というのは、そういうことなのだ。

ならば、別に、必ずしも正しくいる必要なんてない。得する方向に持って行ったほうがいい。そう考えているうちに、自分を守る言い訳がうまくなっていく。怒られるのが嫌だから、嫌われるのが嫌だから、ダメな自分を認めるのが嫌だから、自分を良く見せようと嘘をつく。そして、それでもいいと思う。仕事さえできれば、それでいいと思うようになる。人生がうまくいっていればいいと思うようになる。正しいことよりも、社会人として優秀かどうかのほうが、重要になっていく。

でも、私は、失いたくない。恥じる心を知っている人間になりたい。

本当のところを言えば、何が正しいか、正しくないか、なんて、人それぞれだ。絶対的に正しいことなんか、存在しない。ある人の世界で正義であることが、別の人の世界では、不義になることもある。

でもだからこそ、私は、私が何を正しいと思い、何を正しくないと思うか、常に意識できる人間になりたい。恥ずかしい人間でいたくはない。
私はきちんと、間違ったことをしたときには言い訳をせず、まっすぐに「ごめんなさい」と言い、嬉しいことをしてもらったときには「ありがとう」と言える人間になりたい。

そう思うのは、馬鹿だろうか。アホがすることだろうか。

知らない。そんなの、知らないよ。
私は、私がただ、そういう人間として生きていきたいんだ。

私は、そういう人間が、「正しい」人間だと思う。
それだけの、ことだ。

 

 

 

幼い頃から、「ありがとう」と「ごめんなさい」だけはきちんと言える人間になれと育てられてきた。
あの頃はなぜ母があれほどしつこく言ってきたのかわからなかったけれど、大人になった今なら、わかる。何に対して「ありがとう」と思うか、何に対して「ごめんなさい」と思うかを考えるということは、つまり、自分が何を正しいと思い、何を正しくないと思うかを見つめ直すことなのだ。

今でも、鮮明に思い出す。
あの漢字テストを受けた時のこと。強烈な罪悪感。ギリギリのところで、急いでカンニングした文字を消したこと。

そして、漢字テストが返ってきた時のことを。

テストの点数は、100点中、80点だった。
間違えたのは、「こくばん」だけじゃなかったのだ。

「なんだ、どっちにしろ満点じゃなかったのか」と、私は心のなかでつぶやいた。

私がずるをしてまで守ろうとしていた満点は、幻想だったのだ。

母に返却された80点のテストを見せると、母はこう言った。

「80点! すごいじゃん! がんばったね!」

そう何の屈託もなく褒めてくれた母に、私は「ありがとう」と言いたくなった。

正直、今の私は、あの「こくばん」ひとつで一喜一憂したときの私ほど、純粋でも、まっすぐでもない。自分を守るために最悪な嘘をつくこともある。
自分の嫌な部分、直したい部分もたくさんある。また見つかった、ほらまた見つかったと、自信がどんどんなくなっていく日々だ。自分はもしかしたらとんでもないクズなんじゃないかと思うこともある。

でも、私が本当にどんなクズだったとしても、これだけは、忘れたくない。

恥ずかしくない自分でいること。
常に矜持を持って生きること。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を、きちんと言える人間でいること。

絶対に、忘れたくない。
自分の過ちを真正面から認め、人から与えてもらったものに、感謝できる人間でありたい。

クズはクズでも、自分を守るためのずるい嘘をつくようなクズではいたくない。

だいいち、守るほどご立派で完璧な、100点満点の自分なんか、どこにも存在しはしないのだ。

 

 

 

*この記事は、ライティング・ゼミでライティング技術を学んだスタッフが書いたものです。お客様でも、天狼院秘伝の「書くレシピ」を学ぶことができます。

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2016-10-10 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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