誕生日が二つ有る男
記事:山田将治(ライティング・ラボ)
これは実話である。
何故なら、私の父の事だからだ。
しかし今回話題の中心は、父に複数の誕生日を待たせた祖父である。大好きな、粋で趣味人の祖父だった。
祖父は1900年生まれ。仏壇職人だった。腕はそこそこ良かったらしい。代表作は、横浜鶴見の総持寺の天蓋(てんがい。祭壇上部の覆い)。本堂改築の際、天蓋の金箔張りを依頼を受けたのだ。当時既に引退していた祖父は、大変な名誉と思ったに違いない。
後日、連絡も無しに我が家にやって来て「本山(総持寺の通称)に連れて行け」と言ってきた。天蓋の金箔のその後が気に成ったらしい。
曰く「下地の漆が、俺の注文より若かった。剥離してると修理しなきゃいけない。修理できるのは俺だけだ。命有る内に見て置かないと、死んでも死に切れん」
と、訳の判らない事を言ってきた。時刻は既に15時半を回っていた。総持寺までは、どんなに急いでも、1時間以上は掛かる。寺というものは、大概17時には門が閉まる。
80歳を越えた祖父に対し、反抗しても仕方ないので言われたとおり連れて行った。案の定、到着した時、総持寺の門は閉まっていた。祖父を車に残し、通用門で事情を説明した。天蓋の金箔を張った老職人が訪ねてきたとあっては断り辛かったのだろう、あっさり門を再開してくれた。天蓋を懐中電灯で隅々見ていた祖父。
「大丈夫だ。後200年はこのままで良い。」
と、言った。そもそも80歳を過ぎているのに、後200年とは何と保証の無いと思った。
そんな腕を持っていた祖父、趣味は尺八の演奏だった。当然、尺八は自分で作った。現存する四本の尺八は、舞台衣装であった紋付・羽織・袴と供に私が相続(?)している。
また、祖父は勝負事がすこぶる強かった。子供の頃、将棋を教わったのだが、平手の私に対し、歩三丁でいとも簡単に勝って見せた。昔流行った、路上将棋で小学生の頃、簡単に大人を負かしたらしい。噂を聞き付けたプロの将棋指しが、本気で誘いに来たとも聞いている。
ビリヤードも祖父に教わった。球心を真っ直ぐ突くと、必ずキューに向かって戻ってくると、一日中練習させられたっけ。
晩年、祖父の勝負事といえば株投資であった。とんでもない利益を上げ、国税が査察に来た事もあった。亡くなる日、ラジオの株式相場を聞きながら逝った位だ。
実際に葬儀には、証券会社7社から献花があった。
ここでやっと本題である。
こんな、道楽者で勝負事好きな祖父の元で生を受けた父は、何故か誕生日が二つ有る。
1933年(昭和8年)12月22日と1934年1月2日である。前者が本当の生誕日、後者が戸籍上の誕生日である。
因みに、年子で出生していた兄(伯父)が既に居た。
ポイントは、前者の日付だ。翌23日に、現在の今上天皇陛下がお生まれになった。昭和天皇家初の男子皇族誕生に、国を挙げてお祝いしたそうだ。当然の事ながら、同じ日に生まれた男の子にも賞金が出た。今の価値で、100万円位だったそうだ。
勝負師の祖父の事だから、こう医者に言ったに違いない。
「分け前やるから、23日で出生届を書けよ」と。
医者は、こう言ったそうである。
「いくらなんでも、そんな恐れ多い事は出来ない」と。
それにしても、無理を断られた祖父が何故10日も父の出生届を出さなかったのだろう?
1月2日といえば、正月休み中であるにも拘らずである。
現代なら多分、僅か生後一週間で一年分の扶養控除が受けられると、喜んだのかもしれないのに。
後年、祖父にこの件について尋ねた。その答えがこうだった。
「当時は、満年齢ではなく、新年で一斉に加算される数え年を使ってたんだ。
段々、きな臭くなって来た時代だった。
折角生まれた二人の息子が、二年続けて兵隊に取られちゃたまらんだろ」
父の出生の秘密を知って、また一つ祖父を尊敬した。
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