メディアグランプリ

「握手、握手をしましょう」

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:田中美香(ライティング・ゼミ 冬休み集中コース)
 
 
「おはようございまーす。おはようございまーす! おはようございまーす!!」
 
 
元気な声で誰にともなく挨拶しながら、ドカドカとバスに乗ってくる。
彼は30ぐらいのちょっとぽっちゃり型の男性だ。黒いパンパンに膨らんだリュックを背負い、白っぽい野球帽をかぶっている。
 
 
彼を初めて見かけたのは、西新宿のオフィスで仕事をしていた頃だ。
渋谷駅からバスでオフィスまで通勤していた。そのバスは、渋谷駅始発。ほとんどの乗客が渋谷駅から乗り、途中の停留所でパラパラ降りていく。途中から乗車する人はあまりいないので、新宿に近づくにつれて、だんだんと人が減っていくバスである。
 
 
この日もわたしはバス待ちの列の真ん中あたりで待っていた。真ん中あたりだと、たまに座れないこともあるのだが、ラッキーなことにこの日はすんなり座席を確保することができた。バスは、前方は前向きの一人がけと長椅子のような優先席があり、後方は二人がけの座席が左右に並び、最後方だけ4-5人がけとなっているタイプだ。わたしは、すでに窓側に座っている二人がけの座席の通路側に座った。
 
 
そこへ彼が挨拶しながら乗ってきたのである。
 
 
声自体はそんなに大きいわけではなかったが、静かな車内にはびっくりするぐらい響き渡った。みんなが見て見ぬ振りをしている。彼は私の少し後ろの座席に座ることができたようだ。お隣の女性に同じ音量で「おはようございまーす」と話しかけている。彼は2、3回話しかけていたが、バスが出発すると彼の声は聞こえなくなった。バスのエンジン音と、混んでいたこともあり、もう彼の声はこちらまで届かない。様子もまったくわからなかったが、彼は私の降りる停留所の一つ手前で降りていった。
 
 
数日後、また彼と遭遇した。
 
 
その日は、バス待ちの列のだいぶ前の方に並べたので、二人がけの窓側に座ることができた。やはり窓側は楽しい。対向車線に珍しい車が走っていたり、立派な犬が散歩していたり、代々木あたりに乗馬倶楽部があるので、ちらっと馬の姿を見ることができることもあるのだ。だが、その日はちがった。彼がわたしの隣に座ったのである。前回と同じように彼は元気に「おはようございまーす」といってきた。私の方を向かずに、前を向いて言っていた。これは私に言っているわけではないな?  わたしはなんとなくバッグに手をいれ、本を取り出した。別に読みたいわけでもなかった。なぜか、自然と手が動いた。定番の挨拶が終わると、彼は今度はすこしわたしのほうへ向きをかえたようにみえた。
 
 
「握手、握手しましょう」
と、手を出してきた。
 
 
え、握手? いや、握手はしないでしょ。と、咄嗟に出てきた言葉が、
「これから本を読みたいので、お話はしません」
 
 
彼は何回かうなづいているように見えた。いや、ただ体をゆすっていただけなのかもしれない。そして何事もなかったかのように、握手するはずだった手を、前の手すりへ移動させた。その後、ぶつぶつと独り言を言っては、体を前後に動かしたり落ち着かない。しかし、彼は降りる停留所まで一言も話しかけてこなかった。
 
 
その後も、何度か彼と同じバスになった。
毎回、元気でぶれない挨拶。隣に座った人にも必ず挨拶をする。
 
 
たまたま、わたしが斜め後ろに座った日のことだ。
彼は50代ぐらいのサラリーマンの隣に座った。定番の「おはようございまーす!」に、そのサラリーマンは軽く会釈をした。すると、彼は「握手、握手しましょう」という。なぜか、自分に言われたときのようにドキドキしてしまった。前回、この言葉を投げかけられたときのことを思い出した。この人、どうするんだろう? すると、この男性はちょっと困った顔をしているようにみえたが、すっと手を出して握手をした。わたしはびっくりした。見も知らない人と握手ってするものなのか。日本人同士だと、初対面で自己紹介しても握手はあまりしないだろう。ところが、この男性はごく自然に握手したのだ。握手をすると、彼は満足気に前の手すりにつかまって姿勢をただした。その後ろ姿は、ウキウキしているようにも見えた。その後、彼は、運転手さんが「発車します」というと、「発車です」と言ったり、何やら楽しそうな様子だった。いつもより声が大きい気がした。彼の降りる停留所までくると、「降ります」といってスタスタ降りていった。
 
 
その日、彼が降りた後、なにかとても悲しくなってしまった。自分が嫌になってしまった。彼に何か悪いことをしたわけではない。いや、悪いことをしたと思っているからこそ悲しくて、嫌な気持ちになったのだ。彼は、安心してバスに乗っていたかった。だからこそ元気を振り絞って挨拶をして乗ってくるのだ。そして、安心を得るために握手を求めていたのだろう。それなのに、たった一言の「おはよう」すらわたしは言えなかった。
 
 
次に彼に会ったら、そして隣にすわったら、挨拶しよう。そして握手しようと言われたら、握手しよう。きっと彼は安心を得られるのだ。彼にとって、バスに乗っている間は、緊張の連続だったのにちがいない。
 
 
そう、握手によって、彼の1日はハッピーになるはずだ。
そしてわたしの1日も同じようにハッピーになるはずだ。
 
 
次に会ったら。

 
 
 
 
***
 
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2020-01-08 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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