恐怖のマジックペン事件
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記事:大越香江(ライティング・ゼミ特講)
救急病院に電話するときは、緊張する。
「お待ちいただかなければならないと思いますが、今から来て下さい」
ほっとした。急いで2歳児を救急外来に連れて行く準備をした。
保育園に持っていくものにはすべて名前を書かなければならない。もちろん、紙オムツ1枚1枚に至るまで、である。
ある晩、マジックペンで紙オムツに子どもの名前を書いていた。 書き終えた後、台所の片付けをしていると、我が家の2歳児がマジックペンを持って、落書きをしているのが目に入った。油性ペンで落書きされると困るので取り上げようとした時、キャップがないことに気づいた。
幸い落書きの被害は微々たるものだったが、キャップが行方不明である。子どもが飲み込んでしまったのではないか。それともどこかに紛れてしまったのか。大騒ぎで部屋中を探し回った。
小一時間探しても見つからなかったので、疑惑がさらに深まってきた。子どもの誤飲はよくある事故である。私は、うっかりマジックペンを子どもの手の届くところに置いてしまったのだった。
キャップを飲み込んでしまっているとしたら、救急外来を受診してレントゲン写真を撮ってもらう必要があるのではないかと思った。それでも、もう少し探せばどこかに見つるのではないか、という思いも捨てきれなかった。当の本人は、何が楽しいのかケラケラ笑いながら家中を歩き回っている。歩けるくらいだから、少なくとも窒息はしていない。飲み込んでしまったのか。だとすれば、今頃キャップは胃の中かもしれない。
胃カメラが必要か、場合によっては手術が必要になるのだろうか?
頭の中は混乱していた。
キャップはプラスチック製で、とがってはいない。飲み込んでいたとしても、消化管に穴をあけるリスクは低そうだった。鋭利なものだと、消化管に穴をあけてしまう可能性がある。金属だったら腐食する。このまま、便に出てくるまで様子を見てもよいのかもしれない、と思った。
しかし、2歳児の消化管は大人よりかなり細いのではないか。どこか細いところで詰まってしまうのではないか。救急病院を受診したほうがいいのではないか。
悩みに悩んで、おそるおそる救急病院に電話をかけた。
「2才の子どもがマジックペンのキャップを飲み込んだかもしれないんです」
「出るまで待つしかないと思います。小さいお子さんなのでレントゲンを撮れるかどうかもわかりませんよ。」
ごもっともである。
しかし、こちらも自分の不注意のせいと思うと頭が混乱し、さらにあせってきた。
「プラスチックなんですけど、レントゲンに写ります? マジックのキャップって子どもの腸管を通過できるんでしょうか?」
救急病院の人に訴えるように言ってしまった。冷静さを欠いていた。
きのこの傘がはまり込んで腸閉塞になった人がいるという話を聞いたことがある。きのこが大人の腸に引っかかるなら、キャップが子どもの腸に引っかかるかことがあるかもしれない。じりじりとした気分だった。口が乾いてきた。
救急病院の受付の人が救急室のドクターと相談してくれている間に、夫が突然言った。
「食道に詰まっているってこともあるんじゃない?」
え? 食道?
当人は、機嫌良くケラケラと笑っている。
「食道だったらもうちょっと詰まった感じがして機嫌が悪くなるんじゃないの?」
「そんなこと、わからないだろ」
緊張が高まる。
「お待ちいただかなければならないと思いますが、今から来て下さい」
幸い、救急病院の人は親切だった。
子どもの寝る時間だったが、そんなことは言っていられない。出かける準備をして、タクシーを呼んだ。夫は、なおもごそごそとキャップを探していた。
「あった」
なんと、キャップは子どもの毛糸の帽子の中に入っていた。なぜそんなところにキャップが入っていたのかは謎である。
タクシーと病院を両方キャンセルして一件落着となった。必死だった私と夫を尻目に、当の2歳児は元気に遊びまわっていた。私はへなへなと脱力した。飲み込んでいなくてよかった。
子どもが異物をのどに詰まらせたり、飲みこんだりして起きる痛ましい事故はしばしばおこる。子を持って実感したことだが、子どもは想定外の行動をとる。親が一瞬目を離した隙に、何を始めるかわからないのである。
実際には飲み込んでいなかったけれど、私たち夫婦を震撼させたこのマジックペン事件。「分解できる物には要注意」というのが教訓である。キャップがはずれないタイプのマジックペンがあればいいのにと思うが、危険物はマジックペンだけではない。
親が子どもをひたすら見守るしか方法はないのだろうか。実に責任重大である。
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