ただの合唱好きだった理系男子が東京藝大に現役合格した話《藝大クエスト》
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記事:岡 幸子(ライティング・ゼミ 日曜コース)
2017年3月12日。東京藝術大学声楽科に、ちょっと変わった経歴の高校生が合格した。彼は小学4年生で合唱に出会い、高校はグリー(男性合唱)部に所属していたが、音楽の素養はそれだけ。大学は理系を目指し、高2から予備校の衛星授業で物理・化学・数学・英語を受講していた。そんな彼が藝大受験を決意したのは高校3年生の夏。いったい、彼に何が起こったのか?
これは、ピアノを習ったこともなかった理系男子が一念発起し、立ちはだかるクエスト(ゲームの課題)を攻略し、約半年で藝大現役合格を果たした実話である。
「藝大の声楽科を受けたいんだけど」
彼が最初に攻略したのは母親だった。勝算はあった。両親は教員で、日ごろから大学は本人が行きたいところへ行くべきだと話していたから。
「歌は仕事にしないって言ってたのに、今になってどうして」
「O先生とN先輩が、僕なら受かるだろうって言ってくれたんだ。それで自分を試したくなった」
「模試の成績も悪いから、どっちみち浪人だよね。なら、一度くらい挑戦してみてもいいか。現役でダメだったら、来年は普通の大学を受ければいいね」
ひどい。落ちること前提だ。
「今年、歌が悪くて落ちたら諦めるよ。でも、ピアノのせいで落ちたら一浪して、もう一度受けたい」
「えーっ、ピアノの試験もあるの? 歌だけじゃないの?」
「声楽科は歌の他に、副科実技にピアノがあるんだ。実技試験の一次が、日本語と外国語の課題曲。受かったら二次の自由曲に進める。それにも受かったら三次で、ピアノと聴音と新曲視唱とリズム課題と楽典の試験があるんだよ」
「そんなにあるの! ピアノ、買わなきゃダメじゃない?」
「いや、高校の音楽室に何台かあるから借りて練習するよ」
「なら受けてみたら。受験勉強、楽しくなさそうだったもんね」
母親は、拍子抜けするほど簡単にクリアできた。父親も同様だった。
次は、グリー部顧問のO先生に力を貸してもらう番だ。志望校を藝大に変えたことを伝えると、謎の暗号を告げられた。
「“コールユーブンゲン”は知ってるよね?」
「はい」
知っている振りをしてその場をしのぎ、帰宅して大慌てで解読に取りかかった。彼の弱点は、ピアノと無縁な家庭で育ったことだけではない。高校入学時に希望が通らず、なんと美術選択だったのだ。だから、普通の音楽選択者が知っているような基礎知識もなかった。気合で追いつくしかない。
幸い、コールユーブンゲンの意味は解明できた。
ドイツの合唱曲集で、1番から87番まである。藝大入試では、当日「〇番を歌ってください」と適当に言われたものを、その場で歌う課題があるらしい。もちろん初見で歌えるほど簡単ではないので、全て歌えるようにしておく必要がある。間に合うのか? 彼は不安になってきた。
とにかく先へ進むしかない。
O先生は彼に、この冒険を続けるには絶対に必要な二つの修行場を教えてくれた。それは声楽の先生と、ピアノの先生の個人レッスンを受ける場所。同じグリー部のN先輩が、二年間通って合格を勝ち取った有難い修行場である。ただし、先輩は子供のころからバイオリンを習っており、音楽の素養は十分あった。
数日後、彼は紹介してもらった声楽の先生のご自宅を訪れた。呼び鈴を鳴らし玄関を開けた瞬間、
「一人で来たの?」
と大変驚かれた。少し話して、彼に声楽の基礎知識がないことがわかると、先生は非常に不機嫌になった。
「僕は君なんか教えたくないけど、O先生の紹介だから仕方なく引き受けたんだ。半年じゃ到底間に合わないし、君のためにもならない。最低、一年半頑張る気がないならやめた方がいい。日本歌曲も知らないなら今日は歌わなくていいよ。やる気があるなら、次までに一通り歌えるようにしてきてよ。イタリア語を基礎から教える気はないから、ここへ来る前にN君に教えてもらいなさい。あと、次は親と一緒にきて」
彼は青ざめた。藝大合格のカギを握る師となる人に拒絶されたら絶望だ。とにかく弟子入りできるレベルにならなければ。期限はわずか二週間。
半泣き状態で帰宅した彼は、N先輩と母親に、自分一人ではこの挑戦を続けられないこと、一緒に戦ってほしいことを訴えた。
母親は初めて事の重大さを認識し、その晩amazonでイタリア語の辞書を注文した。そして、藝大受験の心構えを教えてもらうため、二人でO先生に会いに行った。
「まずは、中古でいいのでアップライトのピアノを買うことです」
「電子ピアノでも構いませんか。置き場所がなくて」
「う~ん、弾いた時の感触が違うと練習にならないんですよ。ピアノタッチの電子ピアノなら代用できるかなあ」
やはりピアノは必需品、買わずに済ますのは無理だった。
「歌は、時間があるときは私もみましょう。N君も協力してくれると思います」
O先生に励まされ、彼は必要な歌曲の楽譜を買い、N先輩の助けを得ながらイタリア語を猛勉強して歌詞を理解し、二週間で一曲歌えるようにした。
菓子折りを持ち、母と一緒に二度目の訪問をする。車庫には真っ赤なアルファロメオ(スポーツカー)。練習室は芸術的な彫刻の入ったグランドピアノ、ソファ、譜面台など……イタリア製と思われる品であふれている。豪華だ。
母は音楽家に弟子入りするときの常識もわきまえていなかった非礼を詫び、ひたすら頭を下げている。
頑張るしかない。
簡単な発声練習のあと、彼は師の伴奏でイタリア語の曲を歌い始めた。
「待って」
ほんのワンフレーズで止められた。
「合唱とは歌い方が違うんだよ。ビブラートをかけて」
すぐに修正して歌う。また止められる。
「息の吐き方が違う」
「支えをしっかり」
「もっと息を流して」
言われた通りに歌い直す。
「この言葉の意味は?」
「ここはどう解釈した?」
自分なりの意見を述べる。
一時間後、険しかった師の表情は別人のようにやわらいでいた。
「よく、勉強してきたね」
ほめられた!
「半年で受かったら君のためにならないけど、もし半年で受かったら、それは入学した方がいい。頑張りなさい」
よかった。入門が認められた!
母は目を赤くしている。大げさだ。喜ぶのはまだ早い。
さて、彼の修行場はもう一つあった。ピアノだ。こちらは最初から親と先輩についてきてもらい、すんなりと入門できた。声楽の5倍以上レッスンに通い、毎日夜中まで練習した。本番はグランドピアノだったので、少しでも慣れるため、毎朝学校のピアノも弾いた。歌は習えば何をすべきかわかったが、ピアノはそれがわからない。本番まで来る日も来る日も、課題曲ただ一曲を黙々と弾き続けた。
努力、また努力。
楽典は数Ⅲより簡単だった。コールユーブンゲンはほぼ暗譜した。聴音はほとんど聞き取れず本当に困った。リズム課題はもっと苦手だった。この穴を埋めたのは、おそらくセンター試験(英語と国語)9割超えの得点と、一度もできなかったのに、本番でピアノの課題曲をノーミスで弾けたことだろう。
結果、声楽科志願者216人から一次、二次と絞られ、最後まで残った男子17人(女子37人)の中に彼の番号があった。
多くの人に助けられ、ここまでたどり着くことができた。彼は思う。次のステージに上がっても冒険は続くだろう。この先もきっと誰かの助けなしでは進めない。それでもこの道を歩みたい。
歌が好きだ!
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