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「人間として」アレルギー患者からのお願い

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:近藤頌(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「そろそろ人間としてしっかりやっていこう」
 
ああ、またか。と瞬間的に了解した。
定期的に行われる上長との面談で今回、こんな言葉が出てきた。
なんていい人なんだろう、とも同時に思った。ぼくのためにぼくに足りていないものを考えて提言してくれている。そのありがたさがぼくの内面を複雑にする。むしろ怒鳴ってくれたら清々しかったのに、その人の言葉は小言でもいうようにぶっきらぼうで、そして苛立ちを抑えているようでもあった。
 
人間として。
こういう時に都合よく使われる「人間」の中身は世間一般によいとされている意味合いだろう。思いやりがあって、理知的で、自分を律することができる人。そういう他人に益をもたらせる人間のことを背景に置いて、そういう人間でない行為を非難する目的で「人間として」という言葉は使われるわけだ。
 
そうですよね。
たしかに今のぼくの職場でのあり方は、仕事を一生懸命して人の生活も支えているような「人間」からしてみれば、あまり気持ちのいいものではないのかもしれない。
とも思いつつ、だからといって、その人がなにかを変えてくれるわけではないというのも事実な気はしていて、けれども敵を増やしても自分の首を締めるだけであることはもう経験済みなので、もやもやしていても「ありがとうございます」という台詞を繰り返すに終始した始末である。
 
人間として。
前の職場でも、高校時代でもよく耳にしていた言葉だったし、ぼくに向けられた言葉でもあった。
その度にぼくは、どうしてこの言葉を使うのだろうか、と考えていた。
「人間として」というのは、さっきも書いた通り、人間のよいとされている面を総称して言っている意味内容だ。
そして大概が、相手を非難する時に使われる。
「人間としてどうなの?」がその最たる使用例だ。
非難するからには、その人に直してもらいたい、直さないと後々大変なことになるから心配している、迷惑している、のいずれかの気持ちが混ざっていると推測されるわけだが、ではどうして、その直してもらいたいことを直接言い当てることをしないでおおざっぱに「人間」という大木槌で叩こうとするのだろうかとぼくはよくいぶかしった。
 
ぼくがその人だったら、そうする理由は一つである。
めんどくさいからである。
 
その人の様子から受ける印象についてあれこれ考えたり、直した方がいい理由やその直した方がいいことそのものについて言葉で言い当てるという作業そのものが大変な労力に感じるのだ。
だからめんどくさい。
めんどくさいから大きく枠をとって、変えた方がいい理由や変えるべき方向性を全てぶっ込んで「人間」という言葉を利用するのだ。
めんどくさいことにぶち当たった時そのめんどくささが、ただやりたくないと感じているだけからなのか、もしくはまだ思考回路や行動を行き渡らせる力が自分に足りていないことを直感したためなのか、自分にはやる必要がないと思っているからなのか、単純に作業量が多いからなのか、といった具合にめんどくささを感じる理由は様々である。そういった感じている理由に気付けるか、というのは大いにめんどくささと向き合う方法として役には立ちそうだし、向き合うことで未然に、会話の上での誤解や溝が生まれるのを防げそうなものだが、そういう人は多くないのが現状である。
 
ぼくは前の職場で散々この「人間として」という言葉を言われ続けてきた。
その言ってきた人に悪意がないのはわかっていた。いやむしろ、成長を促すための尻叩きのようなものだと感じていた。成長してほしい、その一心だったのだろう。しかしぼくは期待に応えることはできなかった。ぼくはその「人間として」という言葉にアレルギー反応を起こすようになっていた。「人間として」という言葉を聞くたびに目の前が真っ暗になった。何もできなくなった。
そういえば、高校の頃からぼくは人間らしくなくないことを度々指摘されていた。他人にあまり興味がなく、空っぽで浮いた存在。所属していた演劇部でも別称はピノキオだった。人間を演じられない人。自分自身とてもしっくりくる愛称だった。人間になりたい。ずっと、たぶんずっとそう思ってきていたのだ。けれど改めて「人間として」を問われ続けて、ぼくはちょっとだけ気がおかしくなってしまったようだった。そもそもぼくは人間になんかなれたことがなかったのだ。それなのにどうして「人間として」の振る舞いに従事できるだろう。
ぼくとしては他人に迷惑をかけずに済ませられればそれでよかったのだ。それでよかったのだ。そう思えた時、ぼくはすんなりその仕事を辞める算段に取り組めるようになった。
 
そして今、ぼくは「人間として」の行動を求められない仕事、いや立場に就けている。就けている、と思っていた。思い込んでいた。けれどもまた言われてしまったのだ。「人間として」と。
まさかここでも言われるとは思っていなかっただけに、打撃は大きかった。
 
しかしながら、こんなことを上長に伝えたところでどうにもならないことである。ぼくはぼくが生きられるように生きていくだけである。
ただ一つ、願い事があるとするならば、「人間として」という事柄をめんどくさがらずに別の言葉で説明してほしい、というただそれだけである。
 
 
 
 
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2020-03-07 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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