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煩悩クッキング バニラアイスの救済編


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:谷中田 千恵(スピード・ライティングゼミ)
 
 
まずいことになった。
 
先ほどから、背中にびっしょりと冷や汗をかいている。
必死に上がった口角をキープしてはいるが、ちゃんと笑顔になれているのか。
 
見積書のミスに気がついたのは、ほんの数秒前のこと。
 
たった今、クライアントの目の前にずらっと並んだ、A4プリントの5枚目。
担当者の部下らしき方が、何気なく手を乗せている、そう、そいつだ。
 
手を動かした拍子に見えた、見覚えのない、数値。
……一瞬頭が、真っ白になる。
 
いや、まだ、間違いと確定したわけではない。
一瞬のことだ。たまたまそう見えてしまった可能性だってある。
 
不自然ではない程度に、目を細め凝視する。
お客様を不安にさせないために、あくまでさりげなく。
 
3度目の凝視で、疑惑は確信に変わった。
違う。明らかに違う。そもそも、桁が一桁足りない。
 
体が、かっと熱くなり、どっと汗が噴き出す。
いつからだ。いつから、この資料、間違っていただろう。
 
今回で、打ち合わせは、もう6度目。
見積書は、うちの事務所の報酬を提示したものだ。
 
2度目の時に確認して、金額の了承はもらっている。
今回は、最終資料として、資料の一部につづり直しているだけ。
3度目からは、話題にものぼっていない。
金額が変わるタイミングは、2度目の打ち合わせ以降どこにもないはずだ。
 
まさか、その2度目から間違っていた?
ゾッとして、全身の力が抜ける。
 
以前の打ち合わせで、先方が「ずいぶん、お安いんですね」と驚いていたことを思い出す。
ああ、いくらで、驚いてくれていたのだったか。思い出せ、私。
今日の数字では、出血ドロドロ大サービスもいいところ。驚愕の価格破壊だ。
「うちの事務所は、私一人なので、経費があまりかからないんです」
したり顔で微笑んでいた自分が浮かび、今更ながら小さく呪う。
 
早く事務所に戻って、過去の資料を見返したい。あのファイル、なんでカバンに入れなかったのか。今日に限って、PCすら持っていない。
 
いやいや、そもそも、なんで資料をもっときちんとチェックしなかったのか。
立て込んでいたなんて、言い訳にもならない。だいたい私は、昔から詰めが甘く、ルーズで、どうしようもない。未だに、寝坊は治らないし、言っていることがコロコロ変わる。内弁慶で、身内にだけは強気なくせに、こんな肝心な時にミスをする。ダメな人間、ダメ人間。穴があったら、入りたい。家に帰ったら、すぐさま庭に穴を掘ろう。シャベル一つで足りるだろうか。いや、シャベルは倉庫にあっただろうか。ああ、こんなことすら覚えておけないなんて、やっぱり私はダメ人間だ。だいたい……。
 
いけない。
 
ひとまず、今日のところは切り上げよう。
「では、次回は2週間後ということで。資料は一度持ち帰らせていただきます。今回のご要望も盛り込んで、後日郵送させていただきます」
逃げるように、飛び出してからも、不安の波は私を逃したりはしない。
 
もし、仮に、当初からこの金額で提示をしてしまっていたらどうしよう。
解決策は、2つ。
 
その1。潔く謝って、今更ながら、正しい金額を提示する。
ここまできて、今更も今更だ。最悪、話自体白紙に戻る可能性は大きいだろう。運良く、そのまま続行したとしても、信用は失う。口コミの影響力は大きい。今後、もう2度と仕事が来ない → 廃業。
 
その2。安いままの金額で、計画を続行する。
間違いとはいえ、こちらが提出をしたのだ。責任を持って、努める。
いや、これでは、出張へ行く交通費は、おろか、行政へ提出する申請費までこちらもち。利益どころか、ボランティア以上の出費を負担することになる。
今の経済状況では、まかないきれない → 廃業。
 
ああ、そうか。廃業以外の道は、もうないのだ。
フリーランスとなって、一年。ようやく少し軌道に乗り出していたのにな。
思っていたより、短い時間だった。
両親には、なんて話そうか。ずいぶんと期待してくれていたっけ。
 
両親のことを思うと、途端に胃が痛み出す。
ストレスで、胃酸が過度に出てしまったようだ。
そういえば、バタバタとして、朝から何も口に入れていない。
 
今更、急いだって、何も変わらない。昼食を取ろう。
うん、そこのラーメン屋……。
いや、待てよ、廃業すると、しばらくは外食どころではなくなるに違いない。向こう3年、これが、最後の外食になる可能性がある!
 
起動ボタンを押したかのように、突如私の脳内が覚醒する。脳みその奥に眠っている「死ぬまでにもう一度行きたいレストランファイル」を引っ張り出し、猛然とめくり始めた。ここからの立地に、うん、今日の気温はだいぶ寒い、昨夜の食事は、和食で。はい、はい。
 
はじき出されたのは、閑静な住宅街のイタリア料理のお店だった。
先輩に連れて行ってもらったあそこ。何を食べても、とにかくおいしかった!
 
決まれば、食欲に勝るものはない。リニアのごとく、車を飛ばす。
カウンター席に通されるや否や、わき目もふらず「シェフのおまかせコース」を指差した。最後の晩餐に、コース料理ほど相応しいものはない。
 
結果、この選択は大成功。
前菜の盛り合わせが運ばれてきた時点では、まだ、グズグズと自分をなじっていたが、皿の端のキッシュを口に入れると、食の桃源郷へ、あっという間にトリップをした。
ウニのクリームパスタに溺れ、甘鯛の香草ポワレに、たゆたった。
 
だめ押しは、デザートだ。
一見すると、なんてことのないアイスクリーム。
一口頬張り、思わず腰が上がった。
口いっぱいに、バニラの香りが押し寄せる。そう、この香り! きちんと手順を踏んで、質のいいバニラビーンズを入れて作られないと出ない、この香り。
 
ああ、生きていてよかった。
 
ふと、窓の外を見ると、季節外れの雪が降り始めている。
寒い日に、温かい室内で食べる冷菓。
幸福感が、2割増しで押し寄せる。
 
冷たいスプーンを、口に運びながら、私はすっかりと落ち着きを取り戻していることに気がつく。
失敗はある。もう一度、やり直せばいい。お客様の迷惑を最小限に抑える方法を考えよう。信用を失うかもしれない。仕事を、貯蓄を失うかもしれない。でも、そこから、もう一度チャレンジしよう。チャレンジできる方法を考えよう。
 
事務所に戻ると、以前、了承をいただいていた過去の見積もりは、適正な金額を示していた。なーんだ、今日は別の資料を、うっかり紛れ込ませてしまっただけだった。
大きく、胸をなでおろしながら、私はこんなことを教訓として得た。
 
やっぱり、おいしいものは、全てを救う!
 
いや、書類は、事前にきちんと見直しますよ。ええ、はい。
 
 
 
 
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2020-03-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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