京女の情念に魅入られた昼下がり
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記事 近藤 泰志 (ライティングゼミ平日コース)
「今、振り返ったらきっと連れていかれる」
頭の中で非常ベルが大音量で響き渡り、かってないほどの恐怖に襲われた。
全身から嫌な汗がじわりじわりと噴き出してくる。例えるなら大蛇にじっと睨まれたような感じだ。もし、仮に振り返っていたらどうなっていただろうか。きっと僕は僕でなくなっていたような気がする。できることならもう二度と味わいたくないし、思い出したくもない。そんな体験だった。
話は10分前にさかのぼる。その日、僕はとある場所を訪れた。そこは京都府下京区にある『鉄輪の井戸』(かなわのいど)と呼ばれる古井戸だ。場所は京都駅から市営地下鉄に乗り、一つ隣の五条駅で降りる。堺町通を上がり、ちょうど松原通と万寿寺通の間あたり……といっても土地勘のない方には難しいだろう。だが今はGoogle Mapに鉄輪の井戸と入力すれば現地までの道のりが簡単に検索できる。なにやら便利すぎて末恐ろしくなる。
鉄輪の井戸の由来についてはこんな伝説がある。
その昔、この井戸の近くにある夫婦が住んでいた。ところが夫は彼女を捨てて別の女性と再婚をした。嫉妬深い女は怒り狂い、前夫と後妻を呪い殺すために白装束に身を包み、頭に鉄輪(火鉢や囲炉裏で鍋や、やかんを置く三本足の五徳)をかぶり、三本足に蝋燭を差して丑の刻に貴船神社に向かった。しかし、6日目に女はついに力尽きたのか、井戸に身投げをしてしまった。哀れに思った者が、鉄輪を塚に見立てて彼女を葬った。
それからこの井戸は『鉄輪の井戸』と呼ばれるようになった。
そんな恐ろしい場所にどうして行こうと思ったのか自分でもわからない。しかしなぜか僕はどうしてもそこに行かなければいけないような衝動に駆られた。
五条駅を降りて一路、井戸へと向かう。すると不思議なことが起きた。
井戸までの道順が分かるのだ。
自分でいうのもなんだが僕は地図を見ながら迷子になる極度の方向音痴だ。しかしまるで昔そこに住んでいたかのように井戸までの道が分かってしまった。
勝手知ったる他人の家……といったらよいのだろうか、とにかく僕は迷うことなくすいすいと目的地の鉄輪の井戸までたどり着いた。現在は私有地の奥にあるその井戸はまるで時代に忘れられたかのようにひっそりと存在していた。
周囲はまるで冷蔵庫の中にいるかのような冷気を感じた。井戸は遥か昔に枯渇しており、水はもう湧いていないようだ。何を思ったのか僕は木枠で囲まれていた井戸の奥底をそっと覗き込んだ。
「見られた……」
僕は恐怖で顔を上げた。井戸に引きずりこまれそうになった気がした。その場に尻餅をつきそうになりながら、僕は慌てて辺りを見渡した。もちろん僕以外誰もいない。しかし、確かに誰かが井戸の中から僕を見ていた。見ていた……というよりも目があったといったほうが正しいのかもしれない。
「とにかく一刻も早くこの場から立ち去らなければ、きっと取り返しのつかないことになる」
僕は井戸に背を向けて足早にその場を去ろうとした。だが、先ほどの出来事のせいか足がすくんでしまい、うまく歩けない。僕は牛のようにゆっくりと足を動かした。1歩、また1歩と歩いて鉄輪の井戸から遠ざかる。できることなら叫び声を上げて駆け出してしまいたかった。しかし、鉄輪の井戸は僕にそうすることを許さなかった。どのくらいの時間が過ぎただろうか、僕はなんとか路地の入口にたどり着いた。路地の向こうは太陽の光がさしていてまるで極楽浄土のように思えた。
路地から出ようとした僕はなぜか振り返って井戸をもう一度見たくなった。その場に立ち止まり、ゆっくりと首だけを後ろに向けようとしたその時、頭の中で冒頭の言葉と共に非常ベルが大音量で響き渡った。先ほど井戸の底を覗き込んだ時に目が合った『誰か』が僕の
後ろに立ってこちらを見ている気がした。
その正体が井戸のある路地に住んでいる人だったらどんなに嬉しかっただろう。でも、きっとそうではないということだけはなんとなくわかった。僕はおそらく鉄輪の井戸に身を投げたと伝わっている件の女性に見つめられていたようだ。彼女が呪ったという前夫に僕が似ていたからだろうか。それとも異性であれば誰にでも敵意を示していたのだろうか。真相はわからないが、好意的に見つめられてはいなかったのは確かだった。そしてあの時、無理にでも後ろを振り向いていたら僕は一体なにを見てしまったのだろう。
命からがら逃げてきた……といっても大袈裟ではない。そのぐらい恐ろしい体験を僕はした。そして皮肉にもこの体験から学んだ事が二つある。
一つは京都には決して近づいてはいけない場所があること。そして二つめは僕は二度と鉄輪の井戸には行ってはいけないということだ。
これだから京都は恐ろしい。
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