メディアグランプリ

親は子のライフセーバー


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:杉本 知隆(ライティング・ゼミ特講)
 
 
家の前まで救急車の音が聞こえてきました。
電話して、おそらく3分も経っていませんが、どうやら到着したようです。
 
パジャマだったので、慌ててジーンズとスウェットに着替えました。
当の本人は、パジャマが血だらけでしたが、着替えさせる余裕もなかったので、抱きかかえて救急車に飛び乗りました。
 
いつもの変わらない朝の日常のはずが、一変したのです。
 
我が家では、6歳、4歳、1歳の三人の子育て中です。
一番末っ子で長男シンジ君(仮)は、ちょうど1歳6ヶ月。歩けるようになって、今一番目が離せない時期です。
私にとっては、初めての男の子。お姉ちゃんたち女の子との違いを日々痛感していました。
 
なんと言っても一番は、冒険心に溢れていることです。
コタツの上、プリンターの上、椅子の上、登れるところには、どこでも登ります。
 
その日もちょうど、朝ご飯をみんなで食べている時のことでした。
シンジ君は大人用の椅子に登って、ご飯を食べようとします。
子ども用のベルトがついた椅子を嫌がるのです。
 
また、いつもなら、親がシンジ君の隣に座るのですが、シンジ君が大人の椅子に座ってしまったことで、隣はお姉ちゃんになってしまいました。
私は机をはさんで向かい側に座ることになったのです。
 
そうこうしていると、シンジ君は椅子の上に、背もたれにつかまりながら立ち上がりました。
「倒れる! 危ない!」
一瞬の出来事でした。
シンジ君は、イスごと倒れていったのです。
 
向かい側に座っていた私には、床にぶつかる瞬間を見ることはできませんでした。
ただ、倒れた瞬間からシンジ君は泣き始めていました。
妻が、急いで抱き抱えると、口から流血していたのです。
 
これまでも、転んで頭を打ったり、口を打ったりすることがあり、流血することもしばしばあったので、はじめはそこまで心配していませんでした。
 
しかし、今回はちょっと違いました。
母親が、必死であやしても泣き止みません。
それどころか、血がダラダラと出続けて止まりません。
 
そして、状況が決定的に深刻になったのは、口の中を見た時です。
 
上の前歯がなかったのです。
 
それからはもう、ほとんどパニックでした。
シンジ君のお姉ちゃんたちと必死に、無くなった前歯を探しましたが、見つかりません。
 
その間も、シンジ君は声を震わせながら、泣き続けていました。血も止まりません。
いよいよ病院に行くことを考えました。ただ、今はまだ朝の7時。
 
緊急を要する状況なのか、我々には判断できませんでした。
 
「子供救急相談の電話番号があったはず。確か♯8000番だ。」
 
急いで調べて電話をするも、電話が混み合っていてつながりません。
朝の早い時間帯、日本全国子育て中のみなさんが心配になってかけているのだろうか。
 
いずれにせよ、「こんな番号、肝心な時に役に立ちやしない」と悪態をつきながら、次は最後の手段に出ました。救急車への連絡です。
 
血が止まらず、歯もなくなり、白いパジャマは真っ赤に染っていて、怖くなったのです。
 
人生で初めて救急車に電話しました。
電話先の人は、すぐに迎うと言ってくれました。救急隊員は、怪我の状況は最低限の聞き取りにして、住所の情報など、とにかく現場に駆けつけることに徹していたのです。それを聞き、気持ち的にかなり安心しました。
 
救急車が着いて乗り込むと、脈などを測りました。
前歯の状況を確認しようとするも、シンジ君は泣き続けて、見せてくれません。
 
救急隊員は、今度は怪我の状況を聞き始めます。
椅子の高さはどれくらいだったか。
何か食べていたか?
顔のどこをぶつけたのか。
前歯は見つかっているか。
 
取調べのような質問に受け答えをしながら、私の中で罪悪感がジワーッと湧き上がってくるのを感じました。
 
シンジ君は大人の椅子に座っていた。
なぜ、無理をしてでもベルト付きの椅子に座らせなかったのだろう。
 
食事中、私はシンジ君の向かいに座っていた。
なぜ、私は隣に座ってあげられなかったのだろう。
 
椅子の上に立っている時、心の中で「椅子の上に立って危ないな」と思っていました。
でも、身体は動きませんでした。
倒れたのは一瞬の出来事。
机をはさんでいたため、すぐに動けなかったのです。
 
危険予測は出来たはず。
 
シンジ君が危ない行動を取っているのを見ていながら、私は寝起きでゆっくりとした朝のひとときを優先してしまったのかもしれないと思うと、悔しさと罪の意識でいっぱいになりました。
 
病院に着く頃には、シンジ君は泣き止んでいました。
おそらく泣き疲れていたのだと思います。
 
先生に診てもらったところ、前歯は無くなったのでなく、上の歯茎にめり込んでいたようです。
もう少し年齢が大きければ、埋まった歯を引っ張り出すこともあるそうですが、シンジ君はまだ一歳。引き出すにはリスクがあります。
結論としては、今できることはなく、しばらく様子を見るということでした。
 
ただ、めり込んだことで、歯並びへの影響があったり、永久歯に傷がついていたりするかもしれない。そういうわけで、これからは定期的に専門的な小児歯科医で診てもらう事になりました。
 
永久歯に生え変われば、前歯が元の状態に戻ってくれるかもしれない。
そう思うと、少し安心しました。
同時にこんな事態にさせてしまったのは親の責任だったと深く反省しました。
 
海水浴場で、ライフセーバーは、溺れている子がいないか監視しています。
あの人たちは、ただ様子を見ることだけが仕事ではありません。
事故が起きないか常に予測し、起こった時に即座に救命行動できる心持ちで仕事に臨んでいます。
 
よく子育てでは、3歳くらいまでを「目が離せない」時期と言います。
今回、目が離せないだけでは済まされないことを痛感しました。
 
事実私は、今回の件で、目は離してはいなかったからです。
 
危ないなと思った時に、私がすぐに行動に移せなかったのは、目を離してはいなかったものの、心が離れていたのです。
 
親はライフセーバーにならなくてはなりません。
目を離さないだけでなく、危険予測し、未然に事故を防ぐことが求められるのです。
それは大変な責任です。ですが、親しか子供の命を守ることはできないのです。
 
事故から1ヶ月程度が経ちました。
シンジ君がにっこり笑うと、歯茎にめり込んだ上の前歯がちょこっとだけ顔を覗かせます。
不思議なもので慣れてくるとそれすら可愛くみえます。
 
でも、その頭だけ出た歯を見る度に思うのです。
もう子供のことで、救急車を呼ぶのはこれで最初で最後にしよう。
事故を未然に防ぐ、ライフセーバーになろう、と。
 
 
 
 
***
 
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2020-03-26 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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