メディアグランプリ

そして、”書けないこと”が怖くなった


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:前原祐作(ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 

私はある時から、文章を書くことが怖くなった。

 

怖いといっても、「どう見られるか不安で怖い」とか「書いたことを批判されることが怖い」とかというよりは、文字通り、書くこと自体が怖かった。もっと正確に言うと、書くことで何かを主張することが怖かったのだと思う。物書きがしばしば口にする(ような気がする)「書けなくなった」と同じなのかは分からないが、本当に書けなくなってしまったのだ。

 

これは、そんな私の体験を元にした「書く」という行為についての報告である。

 

そもそも、何かを伝えるとはどいうことなのであろうか?

 

例えば、こんな場面を考えてみる。お父さんがお風呂から叫ぶ。

 

「ちょっと〜、お風呂が熱いよ」

 

それを聞いたお母さんなり子どもたちなり、家族の誰かしらがお風呂の温度を少し下げる。

 

よくあるかどうかは分からないけれど、ありそうな光景だ。面白いことに、ここでお父さんはお風呂が熱いという事実しか伝えていない。お風呂の温度を下げて欲しいなどとは言っていないにも関わらず、それを汲み取って理解するのだ。逆に、

 

「お風呂の温度さげて〜」

 

と、叫んだ場合、家族は「ああ、お父さんはこの熱さは苦手なんだな」ということを汲み取るだろう。私たちが言葉を理解する時、無意識的にしろ意識的にしろ、このような”言わないこと”を汲み取っていることがある。

 

もう少し離れたところから眺めてみると、「お風呂が熱いよ」という言葉にはたくさんの言葉が連なっていると考えることもできる。

 

「お風呂の温度を下げて欲しい」
「ここまで熱い風呂は苦手だ」
「なんでそんなことに気をつかえないんだ」

 

そして、ここで「お風呂が熱い」とだけ言うことは、他の言葉を言わない、ということである。言葉の受け手は、言葉として現れない言外の意味を汲み取って、その言葉を理解する。言葉を発する側と受け取る側では、”言わないこと”の認識にズレが生じるために、すれ違いが起こることは言うまでもない。

 

もう少し別の例も考えてみよう。

 

「断捨離すれば幸せになれます」

 

おそらく、断捨離の魅力を伝えたい人の言葉だと思うが、私はこの手の言葉が苦手だ。「物をたくさん持っている私は幸せになれないのか」という気持ちは芽生えてしまうし、「私の幸せに断捨離は関係ない」とも思う。ただ、それだけでなく、私はこの言葉になんとも言えない違和感を覚えるのである。テレビドラマの第4話と最終回だけ見て感想を述べるような、モヤモヤした違和感である。一体このモヤモヤはどこからやってくるのか考えてみた。

 

「断捨離したから幸せになれた」と言う人は、自分が幸せになった理由を、

 

断捨離→幸せ

 

のように、比較的単純に理解していると思われる。その人の頭の中では、断捨離と幸せがはっきりと繋がっているのだ。しかし、これはあくまで起こった現象をどう理解したかの問題であって、実際のところは、

 

A→断捨離→B→幸せ

であったかもしれない。断捨離をする前の事象Aが幸せにとって重要だったかもしれないし、断捨離をした後の事象Bが幸せに直結したのかもしれないということだ。断捨離と幸せの繋がりは認識以上に緩やかなのかもしれない。はたまた、

 

断捨離→C→幸せ

 

というように、実際重要だったのは事象Bではなく事象Cであったのかもしれない。このように「断捨離したから幸せになれた」という主張には、AやBやCの不在を感じることができるのである。

 

そして、実際のところはもっと複雑だ。実は、断捨離と幸せの間にはBやCだけではなく、DもEもFも存在するからだ。それだけではなく、事象Bを誘発したB’が存在したかもしれないし、断捨離とあまり関係のない事象αがなかったとも言い切れない。断捨離と幸せの周りには、本人すら自覚していないものを含め、数多の事象がカオスな状態で転がっていると言えるだろう。

 

仮に、もしこれが科学実験なら、有意でないCやD以下を誤差として無視して、

 

断捨離→B→幸せ

 

と言うことができるかもしれない。ただ、この考えを実際の私たちの生活に当てはめるのは難しいだろう。私たち人間を取り囲む状況はもっとカオスであると思えてならないのだ。気象学者エドワード・ローレンスの「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」という言葉があるが、もしかしたら事象Dがブラジルの蝶であるかもしれないし、メキシコあたりのサボテンの開花を1日遅らせることぐらいはしてしまうかもしれない。

となると、やはり私は、

 

断捨離→X→幸せ

 

という単純さに違和感を覚えてしまうし、そう言い切ることに怖さを感じてしまう。「幸せになれたきっかけは色々あるけど、たぶんそれは断捨離だった」ぐらいで心に置いておきたいと思うのだ。

 

私たちはしばしば、”言わないこと”に無自覚になってしまうことがある。というよりも、全ての”言わないこと”を自覚することなど不可能である。「書く」という行為について言うと、それは同時に”書けないこと”を生み出してしまう、ということだ。しかし、その中でも”書けないこと”の存在を自覚し、それに向き合うことが人間として求められることである気がするのだ。

 

その一方で、私たちはこの世界を想像以上に単純にしか理解できない。何か特別なことが起こると、どうしてもはっきりとした原因や、それらの因果関係を求めてしまう。先の例について言うと、確かに「断捨離したから幸せになれた」という言葉には違和感を覚えるが、幸せを感じた理由を断捨離に求めることは、やはり人間として率直な行為ではないかと思う。そうだと言う人を私は否定することはできないし、とても人間らしいと思う。それこそが人間として自然な姿である気がするのだ。

 

この2つの間の葛藤に直面した時、私は書くことができなくなった。
”どうしても書けないこと”に対してどう向き合っていけば良いのか分からなくなったのである。
 

その後暫くして、小説を書きはじめた。そのきっかけは取るに足らないことなのでここでは触れないが、考えたことを小説として書くことは私にとって救いであった。

先の例をここでも使ってみよう。小説なら、「断捨離をした。私は今、幸せだ」と書くことができたのである。断捨離と幸せを無理に繋げなくてもよかった。断捨離と幸せを取り囲むすべての事象をそのまま表現することができたのだ。そこにあるのは断捨離と幸せの緩やかな繋がりである。

 

言葉を受け取る側の視点からも考えてみる。「断捨離をした。私は今、幸せだ」という文を読んだ時、小説なら、BやCやDやEに思いを馳せることができる。読む人によって、読むタイミングによって、それらの重要度は変わってくる。そしてそこには、私が自覚すらしていないXが存在する可能性すら出てくるのである。私は、これならCやD以下を書かずに表現することができると思った。

 

私にとって小説を書くことは、分からない繋がりを分からないまま表現する、ということである。私は”書けないこと”を書く方法を知ったのだ。

 

小説がどのようなものなのか、本当の姿はまだ私には分からないし、それを見ることもないだろう。私にとって小説だったものが、或る人にとってはエッセイや詩であるかもしれない。それでも「書く」という行為は思ったより奥深く、複雑なものであると思った次第である。「書く」とはやはり表現なのだ。

 
 
 
 

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2020-04-25 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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