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母はどこに行った


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記事:栗林弘志(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
「こちらは警察です」
 
待っていた電話が掛かってきた。
 
一月十四日午前六時五十分。
 
外は真冬の寒さで深夜から凍るような雨が降っていた。
 
固唾を飲んで、次の言葉を待った。
 
「お母さんを保護しました」
 
「朝、到着ロビーのベンチで座っていたところを発見しました」
 
思わず天井を仰いで涙が出た。
 
「良かった……無事だった」
 
母は前の日の昼前に外出し行方不明になった。
 
「ちょっと佐賀まで行ってくるよ」
 
「あ、そう。行ってらっしゃい」
 
いつものように送り出した。
 
「後で迎えに行くからね」
 
今回も位置情報端末を持たせたから大丈夫のはずだった。
 
母は佐賀出身で、二、三年前から生まれ故郷の佐賀に帰ると言っては出かけるようになった。
 
最初のうちは、出かけて二、三時間で帰ってきた。
 
「どこに行ったの?」と聞くと、佐賀の昔住んでいた町に行ったけど、家はどこだか分らなかったと言っていた。
 
そのころは、帰ってくると「あー疲れた」と言いながらも、さっぱりした表情で機嫌が良かった。
 
そして、一年くらい経ったある日、暗くなっても帰って来ない。
 
いつもなら、お昼ごろ出かけて三時から四時くらいには家に帰る。
 
外は秋、気候は良い。
 
六時、七時、八時、九時。
 
まだ帰って来ない。
 
妻と二人で、これは警察に届けるしかない、と話し合っていたその時、玄関のカギを開ける音がした。
 
「ただいまー」
 
呑気そうな声がした。
 
母だった。
 
十時すぎだった。
 
「心配してたんだよ!」と怒りたいところをぐっと我慢して、
 
「どこに行ってたの?」と聞いた。
 
「佐賀の昔住んでた町に行ったけど、家がどこだか分からなかった」
 
いつもと同じセリフだったが、表情にかなりの疲れが見える。
 
「あー、疲れたからもう寝るよ」
 
「はい、おやすみ」
 
妻と二人で、拍子抜けした。
 
しかし、この時点ですでに認知症後期になっていたことは、後で知ることになる。
 
それから二ヶ月ほど経った週末のある日、また暗くなっても帰ってこない。
 
今度は、七時、八時、九時を回った。
 
前回のただ待ち続ける辛さが蘇った。
 
「ダメだ。捜索願を出そう」
 
初めての届け出。
 
警察に電話して事情を説明。
 
警察から警官が家に来た。慣れているようで、聞くべきことを次々と質問し、まずは管内の捜索を行いますとのことだった。
 
テレビドラマでしか見たことがない立場に置かれて、一体これからどうなるのか、大きな不安が襲ってきた。
 
そして十時を過ぎた。
 
警察から電話で、
 
「これから捜索範囲を東京全域に広げます、明朝になっても見つからない場合は、全国手配になります」
 
とのことだった。
 
「日本全域を捜索?」
 
気が遠くなった。
 
「この間みたいに、家の玄関で『ただいまー』と言って、無邪気に笑いながら帰ってきてくれ!」
 
ありとあらゆる悪い可能性が次々と頭に浮かんでくる。
 
気が狂いそうだった。
 
そして夜中の一時すぎ、電話が鳴った。
 
「お母さんを保護しました」
 
「あ、ありがとうございます!」
 
「今からすぐに迎えに行きます」
 
幸いなことに車で二十分くらいのところだった。
 
警察署の中では、真夜中にも拘わらず母がお巡りさんと談笑していた。
 
母は、私の顔を見るなり、
 
「あ、わざわざ迎えに来てくれたの。ありがとう」
 
とニコニコしながら言った。
 
「今日はどこに行ったの?」
 
「佐賀に行ったけど、家がどこだか分からなかった」
 
と、いつもと同じことを言った。
 
無事に家に着いた。
 
「あー、疲れたから寝るね」
 
そう言って母は自分の部屋に戻った。
 
こちらも疲れ切って、すぐに寝床に入ったが、興奮で中々寝付けなかった。
 
これを繰り返されたらたまらない。位置情報端末を契約し、母に必ず持たせるようにした。
 
そして、夕方になっても帰って来ないときは、居場所を確認して迎えに行くことにした。
 
それがあだになった。
 
その端末が突然機能しなくなったのだ。
 
端末のサービス会社に何度問い合わせても復活しない。
 
やむを得ず捜索願いを出した。
 
どうやらそれらしい人物が、六本木一丁目駅にいるようだとの警察からの連絡が入った。
 
どうかそこから動かないでくれ。
 
焦る気持ちを抑えながら駅に向かった。
 
駅員に尋ねると、それらしい人が電車に乗って埼玉方面に向かった模様とのこと。
 
同じ方向の電車に乗って追いかけるしかない。
 
もしこのままどんどん遠くに行ってしまったらと思うと、不安に押しつぶされそうになる。
 
駅から携帯に電話が入り、乗ったと思われる電車の終点には、それらしい人物はいないとのこと。
 
それなら、昔母が住んでいたあたりの駅で降りたかもしれない。
 
突然、頭にそんな考えが浮かんだ。
 
その駅で降りて改札に向かうと目の前に母がいた。
 
ホッとして体から力が抜けた。
 
これ以降、電車やバスに乗らないように、出かけるときはお金を持たせないことにした。
 
それでも、母は外出を繰り返した。
 
佐賀と思われる場所に向かってどこまでも歩いていく。
 
健脚だった。
 
行き先は、東西南北その時の気分で、どこにでも歩いていく。
 
あらかじめ行き先に検討をつけるのは不可能だった。
 
ある時は銀座、ある時は蒲田、あるとき三軒茶屋。
 
どこも普通は電車で30分以上かかる。
 
そして、その事件は起こった。
 
真冬だが、天気が良く気温は十度近い。
 
後で迎えに行くつもりで暖かくなった昼ごろに送り出した。
 
「ちょっと佐賀に行ってくる」
 
「はい、行ってらっしゃい」
 
そろそろどこにいるかなと思い、居場所をチェックしたら検索不能。
 
夜から天候が悪化するとの予報。
 
嫌な予感がした。
 
午後四時半、暗くなる前に警察にこの年初めての捜索願いを出す。
 
端末サービス会社は一時間おきに検索するが、検索不能が続く。
 
夜中の一時半ごろ雨が降り出す。
 
二時二十分検索不能。
 
一晩中連絡なし。
 
そして、翌一月十四日朝六時五十分、羽田空港国際線ターミナル交番より、母を保護しているとの連絡が入る。
 
なんと歩き続けて羽田空港まで行ってしまったらしい。
 
健脚にもほどがある!
 
その一年後、母は骨折し歩けなくなった。
 
今は介護施設で、優しいスタッフの方々に守られながら、ここが終の住処だと思いながら安心して暮らしている。
 
スタッフの皆さんの献身的なケアのおかげで、全く歩けなかったのが、今はゆっくりとだが施設内を歩けるようになった。
 
もしかすると、またいつか佐賀へ向かって歩き出すのかもしれない。
 
そうなったら、今度は羽田空港から本当に佐賀に連れて行ってやりたいと思う。
 
 
 
 
***

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2020-06-25 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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