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前髪というお守り


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:坂田文(ライティング・ゼミ通信限定コース)
 
 
満員電車に揺られて出勤する、一人の女性がいました。
リュックを前に抱え、目は閉じ、朝一番だというのに、うつらうつらと船をこいでいます。
 
毎日、往復3時間をかけて通勤し、仕事着である着物を着るために職場に到着するのは出勤の1時間前。
朝一から先輩の小言を聞かなくてもいいようにと、身じたくを整えて出勤するのは、いつも決められた時間の30分前でした。
 
そう、彼女はホテルの中の日本料理で働く、サービススタッフなのです。
 
全世界に展開する外資系ホテルの中にあるその日本料理は、地上5階にあるにもかかわらず、美しい日本庭園を眺めながら食事ができる、ゆったりとした空間が魅力でした。
 
表向きはゆったりとラグジュアリーな空間。
しかし、一歩バックヤードへ入ると、そこは目の回るような戦場です。
 
サービススタッフ同士ではゲストの情報や料理の進み具合を共有し、ゲストからの要望をキッチンスタッフに伝え、ゲストから「他のレストランのものが食べたい」とリクエストがあれば急いでピックアップに向かう。
状況はくるくると変わりつづけ、常にばたばたとした状況でした。
 
夏でも冬でも、どれだけ完璧に空調が効いていても、いつも汗びっしょり。
常に走り回っているわけですから、ヘアセットは身だしなみのキーポイントでした。
 
ショートカットの彼女にとっては、とくに前髪が。
 
彼女がその会社へ入社する際のオリエンテーションで、人事スタッフからこんな話がありました。
 
「身だしなみが決まっていない、と自分が感じている状態では働かないこと」
 
そういった状態だと、目の前のゲストよりも、自分のことに意識が向いてしまうからという理由でした。
 
身だしなみについては、事細かく決められていました。
もちろん、前髪についても。
 
「前髪をセットする際は、おでこを完全に出すか、もしくは半分は出すこと」
 
そのことにより、ゲストに対して「きちんと受け入れられる準備が整っています」というアピールになるという理由からです。
それにホテルですから、ある程度の「きっちり感」の演出が必要で、潔く前髪をオールバックにしてしまう以外には、おでこを半分くらい見せる緻密なカーブを描く前髪が必要になるというわけなのです。
 
彼女は後者でした。
おでこを半分くらい見せる緻密なカーブを描く前髪を、毎日作り上げていました。
 
「ケープ」というヘアスプレーで。
 
もちろん、それは彼女に限った話ではなく、ホテルに勤務する大勢の女性がケープに信頼を寄せていましたから、各セクションの出勤時間が重なる午前中のロッカールームでは、いたるところでケープがふりまかれるのです。
 
いい感じの「緻密なカーブを描く前髪」をガチっとキープするために。
 
こうして、どんなに激しく動いても汗をかいても、微動だにしない前髪を作り上げることで、仕事に集中できるのです。
むしろ一度勤務に出てしまえば、髪型にかまっている暇などなく、髪型が常に「決まっている」というのは、よりよいパフォーマンスをするための必須条件でもありました。
 
それを叶えてくれるケープは、ある種お守りのような存在で、「これがあるから、わたしは大丈夫!」とでも思えるような、心の支えのようなものでした。
 
そんな忙しく動き回る彼女のもう一つの心の支えは、音楽でした。
ピアノのクラシックが好きで、休憩時間にはいつも決まってグレン・グールドというピアニストが弾く曲を聴いていました。
かの坂本龍一先生も、かつては「ツアーの時にはグレン・グールドのCDを持っていく」とおっしゃっていたほどのピアノの名手です。
 
つややかに、時に大胆に流れるその旋律は、いつも彼女をやさしく包み込んでくれました。
 
休憩の前にいろいろやらかした失敗や、よくわからない先輩からの八つ当たりや、そんなもろもろと向き合う彼女にとって、それはまるで、ネガティブな気持ちが流れる身体をフィルターにかけ、きれいに浄化してくれるような存在でした。
 
ある日の休憩時間、彼女は体力的にも精神的にも疲労のピークでした。
連日の忙しさにより疲労がたまり、ミスがミスを生む。
びびりすぎで先輩ともうまくコミュニケーションがとれず、それがまたミスにつながる。
 
「もう戦場には戻りたくないよー」
そう思いながら、その日もグレン・グールドのピアノを聴いていました。
 
休憩時間はのこり10分。
 
「戻らなきゃ、戻らなきゃ……!」
そう言い聞かせ、決心した彼女は鏡をのぞきました。
 
そこには、朝セットしたままの緻密なカーブを描く前髪がありました。
 
あんなに髪を振り乱して動き回ったのに、微動だにしないその前髪!
彼女は、心底ほっとしました。
 
それを見て思ったのです。
「まだがんばれる」
 
そうして、私は、自分の中の「彼女」に声をかけました。
 
「まだ大丈夫だよ」
 
鏡に向かって満面の笑みをつくり、そして、再び戦場に戻っていきます。
 
毎日くり返すあわただしい戦場の中でも、ゆるぎない安心感をくれる、微動だにしない前髪をお守りにして。
 
 
 
 
***
 
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2020-06-27 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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