ピンヒールの音楽
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:しみず あいこ(ライティングゼミ・平日コース)
「カツ、カツ、カツ、カツ」
気品溢れるヒールの音が音楽室の練習室に響く。
足音がたどり着いたのは、2階の部屋の先生の部屋。
「ギー、バタン」
ドアが閉まる音を確かめて、私は再びピアノの練習に向かう。
ここは、音楽大学内に設置してあるピアノの練習室。幼少期からピアノが大好きな私は、地元の音楽大学に進学した。
私を担当してくれるピアノの先生は本当に素敵だった。年齢不詳なこの女性は、高いピンヒールを履きこなし、高級ブランドのスーツを身にまとい、常に丁寧に手入れされた長い髪に風を巻き込ませながら、「カツ、カツ、カツ、カツ」と風を鳴らして歩いていた。「カツ、カツ、カツ、カツ」というヒールの音で、私は遠くからでも先生の匂いにたどり着く事ができた。
先生は、とても厳しい人だった。レッスン中の無言の圧力は、生徒を痺れさせる。手も足もガクガクだ。一週間の練習の成果が見えなかった時に発生する、無言の地獄絵図は耐えがたいものだった。レッスン室から泣きながら退室する生徒もいる程である。
しかし、先生は上手な生徒には優しかった。音楽家というものは、気分屋で難しい性格だ。しかし、自分の理想に近い事を達成してくれる生徒には、寛容な雰囲気を漂わせている。
私は、ずっと先生に無視されていた。
理由は簡単だ。先生の理想に叶う演奏が出来ないからだ。ただ、ピアノが好きで音楽大学に進んだ私は、コンクールの順位競走で闘うような生徒とは異なる形でピアノと関わってきた。好きな曲だけを選んで弾き、気が向いた時だけピアノに向かう。そんな勝手気ままなピアノとの付き合い方の代償が、憧れの先生に無視されるという形で、私を苦しめていた。
そして私は、誰よりもピアノの練習に励んだ。誰よりも練習室に閉じこもった。誰よりも、指の基礎練習に取り組んだ。朝から晩までピアノに向かう経験など、皆無だった私が、こんなにもピアノの虜になるなんて……。
ピアノの練習室に籠る日々中で、唯一の癒しは先生の「カツ、カツ、カツ、カツ」というヒールの音だった。練習室に響く、つたない私のピアノの音と先生の気高いヒールの音が混ざり合う。それは、まるで練習室にこもる冴えない私の孤独と、音楽家として高い誇りを守ろうとする先生の孤独が溶け合うようだった。人生の殆どの情熱を一途に音楽に掛け続けてきた音楽のプロと、自分に都合の良い形で気ままに続けてきた私の趣味の音楽。全く交わることのない二つの音が、「練習室」という空間によって繋がっているような気がしていた。
来る日も来る日もピンヒールの音と共に練習に没頭していたある日、レッスン室に入ると先生が一言いった。
「あなた、本当によく練習しているわね」
私は驚いた。
練習してもピアノの上達が見られない私なんて、先生の興味の対象ですらないと思っていた。それなのに、先生は私が練習していることに気がついていてくれている。私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。先生に気づいてもらっていた事がとても嬉しくて……。
それからの先生と私の関係は少し変化したように感じた。
私は先生になんでも話をするようになった。音楽のことだけでなく、たわいもない会話や恋愛の話まで。自分とかけ離れた世界にいると思っていた音楽のプロは、いつしか「私の心の先生」になっていた。
「私なんて」の壁を作っていたのは、自分自身だったように思う。周りから聞こえてくるピアノの上手な生徒達の音色の中で、不器用に鳴り響く自分の音がなんともみすぼらしかった。そして、私は劣等感という壁を自分で作り、「私は先生から無視されている」と思うことで自分を正当化していたのだろう。「私なんて」の壁だ。
ピアノの技術は思うように上達しなかったけれど、毎日ピアノに向かい続けた時間は、私の大きな自信になっている。綺麗事ではなく、一生懸命何かに真摯に向き合えば、どこかで、誰かが必ず見ていてくれる。それが、自分自身の信念になった。
音楽大学を卒業してから10年以上経つ。先生との年賀状のやりとりは、いつしか途絶えてしまったけれど、今でも私は街の中から聞こえてくる「カツ、カツ、カツ、カツ」というヒールの音に耳を傾ける。ピンヒールの音は私の青春を思い出させてくれる、私の音楽だから。
***
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