『京都ぎらい』の東京ぎらい
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記事:渡邊真澄(ライティング・ゼミ通信限定コース)
「そしたら、夫のおかあさんが泣かはってな。違うねん。転職するのは全然怒ってはらへんねん。『うちの息子が東下りするやなんて』言うて泣かはったんやわ」
私が20代半ばの出来事。「夫が転職するんで、東京に引っ越すねん」と幼なじみの彼女から連絡があり、久しぶりに会った。彼女が京都の男性と結婚すると聞いたとき、私たち友人は心配した。彼の実家が中京区で代々染物屋をしていると聞いて、さらに心配した。「あちらのご両親は息子らに継がすつもりない、言うてはるし。彼も全然違う仕事してるから。それに京都いうても、うちらの育ったとこから電車で20分やん。そんな変わらへんって」5年前、彼女は笑顔で言ってたなあと思い出していた。「『東下り』ってどういう意味?」友人のお姑さんが泣きながら言った言葉に興味が沸いた。「私も初めて聞いたからな。あとからこっそり、夫に聞いてん」と、彼女は私にその意味を教えてくれた。「京都の人間は転勤や移動、引っ越し、そんなんで東京へ行くこと『東下り』言うんや。もともと京都が『都』やったやろ。そやから、東京へ行くのは「上る」んちゃうねん。「下る」やねん」彼女と私が育った大阪北部の地域と京都の間に、府境とは別の境界線があるとわかった。「上京」ということばが、京都では通じない。東京より京都の方が上と思っている京都人がまだ存在すると、その時知った。
彼女から遅れること20余年。私も東へ下り横浜で暮らして数年が経った頃、駅前の書店でこの本を見つけた。「京都らしさ」を前面に押し出したガイドブックや、関東から京都へ移住したひとが書いた「外国人がのぞいた日本」のようなエッセイのなかで、この本だけが違うなにかを放っていた。
京都ぎらい 井上章一著(朝日新聞出版)
『「ぶぶ漬け」の話は出てきませんが……千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く』表紙の帯にまず惹かれた。全国的にも有名になった『ぶぶ漬け』の話を一切せずに、京都のいやらしさを書くのか。これは魅力的だ。くるっと返して裏表紙の帯も見る。『「ええか君、嵯峨は京都とちがうんやで……」さげすまれてきた「洛外人」が、京都人のえらそうな腹のうちを“暴露”』国内だけでなく、海外からも観光客が押し寄せる嵯峨野が京都とちがう? 益々この本に興味を持ち手に取り表紙を開いた。「このままやと立ち読みしながら笑ってしまう」と思いレジへ行った。家に帰り一気に読んだ。「そうそう、あるある」と私にも思い当たる『京都人のいやらしさ』もあれば、初めて知る京都の寺社、お坊さんと舞子さんの話、京都に軸を置いた歴史の話もあった。他の京都本とは違うかなり突っ込んだマニアックな内容だった。最も長く語られていたのは、洛中と呼ばれる京都の街中で代々暮らしつづる京都人についてだ。洛外とされる嵯峨野で生まれ育った著者は、洛中の人々が腹にもついやらしさや中華思想を延々と語っている。私が出会った京都人たちの顔を思い浮かべ、ニヤニヤしながら読み終えた。本棚に置かれて3年。先日久しぶりに再読した。読みながら20余年前幼なじみから聞いた『東下り』の話を思い出した時、ふと思った。「井上先生は京都ぎらいだけでなく、東京ぎらいやな」そういう目で改めて読むと、江戸幕府と京都の歴史、維新の話が生き生きとしてきた。それだけでなく、著者が腹のうちにもつ江戸、東京への思いが垣間見える気がしてニヤニヤしてしまった。
著者は単に東京が嫌いというだけでなく、東京という中央への徹底した抵抗姿勢を示している。『あとがき 七は「ひち」である』(pp213-221)でそれがわかった。京都および私が生まれ育った大阪北部では、七を「ひち」と言う。「なな」でも「しち」でもない。「ひち」だ。だが、数年前から京都でバスに乗ると自動音声案内が「つぎは東山七条(ななじょう)」と言う。「ななじょうって。いつからこんな気持ち悪い言い方なったんや」と思っていた。私がずっと聞いてきたのは「ひがしやまひちじょう」である。九九を唱えていた小学生の頃も7×7は、「ひちひちしじゅうく」である。学校の先生もそう教えていた。著者は「ひち」を「しち」と修正する出版社と闘っていた。初稿刷りで、本文にある「上七軒」という地名に、「かみしちけん」とルビがふられていた。地名だけはどうしても譲れない。著者は出版社と闘った。最終的にどうなったか。該当のページを再度見返し、私はニヤリとしてしまった。
東京にひと、新しい情報やモノ、金が集まる日本のなかで、ひとつくらい東京を嫌い見下ろし抵抗する地域があってもええやないかと思う。そう思って、この本を紹介した。成績優秀、性格良し、向井理に似た高校時代の息子の同級生が女子生徒からあまりモテなかった事実のように、わかりやすい魅力が揃いすぎた都会は面白みにかける。千年のいやらしさを持つ京都、わかりにくい腹のうちをさぐりあいながら生きる京都人。今や東京にえらそうにできるのは、そんなややこしい京都だけだ。大阪北部から東下りをした私は、遠くからひっそりと京都を応援し続けている。
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