意地悪な女王様は開拓者だった
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:澤田敏仁(ライティング・ゼミ日曜コース)
1990年代の初め、僕が新卒で働き始めた会社で、Yさんはタイピストとして働いていた。
当時は、社内向けの書類は手書きで、社外向けのものは担当者が便せんに原稿を書いたものをタイピストに渡し、清書をしてもらっていた。
タイピストの仕事は、この手書きの原稿をワープロ専用機で清書して、体裁を整えることだ。
目的によって、フォントの種類や大きさ、レイアウトなど適切なものにすることが求められる。中には字の間違いや、抜け漏れもあるので担当者に確認しながら文書を完成させなければならない。
Yさんは従業員600人の会社で、ただ一人のタイピストだったので、毎日それなりに忙しかった。
展示会の案内、社外イベントの招待状、得意先へのお礼状、社内の通達文書など、会社の公式文書は全てYさんが作っていた。
Yさんは仕事は完璧なのだが、納期が短いときや、原稿に間違いが多いときなど、納得できないときは、担当者を容赦なく怒鳴りつけた。
私のような若手社員だけでなく、課長、部長、場合によっては役員に対しても遠慮はしなかった。
誰もYさんには頭が上がらなかった。
Yさんにへそを曲げられないために、だれもが低姿勢でお願いした。
当時はまだ、職場での女性の地位が低かったころだ。
50歳前半とはいえ、女性に頭を下げてお願いすることは、男性上位の社会で育ってきた部長や課長には耐えがたかったことだろう。
「部長の希望の納期では、できません」
「そこをなんとか!」
「見てください。今、これだけの仕事を抱えているんですよ。どうやってやるんですか!」
「しかたないなあ、あと1日先ならどうですか」
こんなやりとりはしょっちゅうだ。
「Yさんのおかげで、仕事がうまくいきました。これ出張のお土産です」とYさんに取り入ろうとする社員も大勢いた。
「ありがとう、じゃあちょっと付き合いなさいよ」とタバコやコーヒーブレイクに突き合わせ、愚痴を聞かされる者も多かった。
ときには、気に入らない社員の仕事を後回しにすることもあった。
僕はこの女王様ぶりと意地悪さを警戒し、必要以上に近づかないようにしていた。
そんな僕だったが、あるときYさんと仕事終わりに飲みに行くことになった。
いきさつは詳しく覚えていないが、社長の運転手さんから声を掛けられ、行ってみると運転手さんとYさんと僕という3人だった。
お酒が入り、他愛のない仕事の話をしていたときYさんが話し出した。
「私の若いころは、女は30になったら、辞めさせられていたの」1990年代でも女性の結婚退職、いわゆる寿退社は多かった。Yさんの若いころはもっと当たり前のことだったのだろう。
「最初に勤めた会社で結婚しても辞めないで働いていたら、上司に呼ばれ、女は30歳になったらやめないといけない、と言われたのよ」
僕と運転手さんは黙ってYさんの言葉に耳を傾けた。
「仕方なく辞めたんだけど、それが悔しくて、悔しくて。女でも何か仕事を続けられることってないかしら、と調べたのがタイピストなの」僕と運転手さんは黙ったままだ。
「日本語ワープロの勉強をして、資格を取ってようやくこの会社に就職することができたの。だから私はこの仕事に誇りをもっているのよ」
知らなかった、というか気付かなかった。
Yさんはただの意地悪な女王様ではなかったのだ。
学校を出てから結婚するまでの数年間をお茶くみや庶務業務で終わることに疑問を抱かない女性社員に、“これからは女性も高い専門性を持って堂々と男性社員と渡り合いなさい”といっていたのだ。
Yさんの半生は女性の社会的地位を開拓してきていたのだった。
それからもYさんの意地悪さは変わらなかったが、僕には以前と違って見えた。
Yさんなりに仕事に賭けているんだ、と思えた。
しかし、だんだんとYさんが依頼される仕事が減ってきた。
ウインドウズ95の発売によって、パソコンの普及が始まったのだ。
最初はキーボード操作ができなかった社員たちも、毎日使っていく中で、急激に操作ができるようになった。
内臓されたワープロソフトはYさんの使っている専用機器ほどではないが、日々の業務をするには十分だった。
こうなるとYさんに頭を下げて、行きたくもないコーヒーブレイクに付き合ってまで仕事をお願いすることもない。
手書きで原稿を書くくらいなら、最初から自分で作った方が効率的だ。
Yさんに依頼に行く社員は最後までパソコンに抵抗を示したベテラン社員だけになったが、彼らも定年を迎え、順番に会社を去っていった。
こうしてタイピングは専門職の仕事から、誰でもできる仕事になった。
とうとうYさんの仕事は会社の決算報告書作成と名刺づくりだけになった。
Yさんの席にもパソコンの何倍もするワープロ専用機が取り外され、パソコンが設置された。
Yさんの、高額なワープロを使いこなせるのは自分だけだ、というプライドが砕かれた。
Yさんの背中が小さくみえた。そういえば、Yさんもあと1年で60歳定年だった。
最後の1年、Yさんは定年の日を指折り数えるように静かに過ごした。
ところが定年の4ヵ月前、Yさんは退職を申し出た。
「もう手首が限界で、決算報告書の作成は自信がない」というのが理由だった。
決算報告書は依頼していた経理部で手分けして作ることになった。
そして退職の日、Yさんは深々と頭を下げて会社を去った。
定年には4ヵ月足りなかったが、Yさん顔は晴れ晴れしていた。
こうしてタイピストという仕事が会社から消えていった。
ここまで書くとしんみりした寂しい話に思えるが、僕はYさんが時限爆弾を仕掛けていったと思っている。
決算報告書の作成業務は思いのほか大変で、経理部員が毎日遅くまでやってもなかなか終わらず、「Yさんがいてくれたらなあ」としょっちょう嘆いていたからだ。
Yさんは最後にプロのタイピストのスキルの高さを、自分がやらないことで伝えたのだろう。
あれだけ意地悪で、わがままで、誇り高く、完璧な仕事をする人だ。
最後にそれぐらいやっていてもおかしくはない。
***
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