本棚で香水を選ぼう
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:秋田梨沙(ライティング・ゼミ日曜コース)
21時55分。
私は今、仁王立ちで洗面台を監視している。何故、たかが歯磨きにそんなに時間がかかるのだ。ようやく本気で寝る気を出した息子たちにうんざりしながら、時計を見る。
あぁ、今日もこんな時間……
どっと1日の疲れが押し寄せてくる。仕事を終えて、子どもたちを迎えに行って、帰宅して、晩ご飯……この辺りまでは順調だったはず。なのに結局、いつものこの時間。おかしい。
「ママ! 終わったよ! いま何時?」
はっとして顔を上げれば、長男が携帯を覗いている。画面は「21:58」。
「まだ、じゅうじになってない?」
「うん、まぁ。ギリギリだけど……」
「やったー! 絵本よめるってー!」
次男を呼び寄せ、ふたりは嬉々として絵本を選び始めた。
21時半までに寝る準備ができたら絵本を読む。
息子が少しでも早く寝るようにと親子で決めた約束だ。はっきり言って早寝の効果は全くない。無いどころか、お気付きの通り、いつの間にかリミットが22時に変更されている。そのくせ「絵本を読む」という部分だけはしっかり覚えていて、どんなにギリギリだろうが、こちらは約束を守らされているのである。おかしい。
約束、失敗したな……。とうに22時を回った寝室でしぶしぶ絵本をひらく。
「今日はこれー!」
調子よく次男が取り出したのは、先月実家から持ち出してきた絵本だった。
「あ、これママのだね。魚がネコを食べちゃうやつ」
うんうん、と小さい頭がぶんぶん揺れる。何年ぶりだろう。私もちょっと懐かしい気持ちになって、ぱらりとページをめくる。真っ赤な魚にシマシマのネコ。そうそう、こんな顔してたよね。読み出そうとして、鉛筆の書き込みに目が止まる。
ぷしゅ。
その瞬間、私は絵本の街で思い出の香水とすれ違ったのだった。
それは、私が今の長男ぐらいの歳の頃だったと思う。
「ここは私がよんで、ここはパパね」
父の帰宅を待ち構えていた私は、偉そうに指示を出す。絵本の台詞に鉛筆で名前を書いておいたのだ。ネコ役が私で、魚役は父。お気に入りの絵本というわけでもなかったから、ためらいもなく書き込んだ。妹が生まれ、誰かに読む楽しさが生まれてきた頃だったのだと思う。父と、お互いの迫真の演技に大笑いしながら読んだ。
30年経って、そんな事はすっかり忘れていたのだけれど、ページには思い出が詰まっていた。
子どもたちが眠りについた後、急いで本棚へ向かう。実家から、他にも5、6冊持って帰ってきたはずだ。全部読みたくなった。
まずは、お気に入りの1冊。ねずみの建築家の話だ。これは今でも冒頭を空で言える。始めは、私と父と。数年後には妹と3人並んで大合唱して読んだ。その声の調子も、間も、ありありと思い出せる。今も3人で合唱……できる! ちょっとマイナーな絵本だけれども、我が家では大ベストセラーだ。
こっちの赤い表紙の本は長い話だった。だいたいいつも同じところで父が眠り始めて、よく私が怒っていた事を思い出す。少し大きくなってから自分で読んでみて、確かにこのページあたりは退屈だな……と父の気持ちがわかったのも面白かった。
夜の読み聞かせ担当はいつも父だった。今思えば、帰りの遅い父の活躍の場を母が作っていたのだと思う。その代わり、本を選んで買ってくれるのは母だった。一緒にいれば私が選んだけれど、不思議と母の選ぶ絵本は私の好みにピッタリで、あまり外したことがない。娘をよく見ていてくれたのだと思うと、どこかくすぐったい。
夜中に絵本を並べて、独りくすくす笑う姿を夫に気味悪がられながら、思う。
「絵本って香水みたい」
すれ違った一瞬、ページを開いた瞬間。まるでたった今、経験したみたいに記憶が鮮やかに蘇る。読んでくれた父の大きな手。温かな布団の温もり。その日の夕飯のおかず。頬をくすぐる妹の髪の毛。ワクワク高鳴る胸の音。絵本の影から見える天井の灯り。遠くで響く母の笑い声。
絵本は優しく、けれどしっかりと私たち親子を繋いでくれていたのだ。
両親が一吹きしてくれた香水の香りは、今も記憶のどこかに残っている。
街ですれ違えば、勢いよく振り返るように。
私は、子どもたちにどれだけ香水をプレゼントできているのだろうか。
今日を振り返って、大いに反省した。息子たちの嬉しそうな顔と真剣な眼差しを思い出す。義務ではなく、心から思う。
「絵本を読む時間、作ってあげよう」
夫ともそんな話をした。彼らがいつかお気に入りの香水に出会えるように。
「ねぇ、ねぇ! 今日はまだ絵本読めるの?」
21時55分。
さぁ、今日も本棚で香水を選ぼう。
***
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