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ドッグタグを持つ女


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記事:濱嶋春香(ライティング・ラボ)

 

初めてそれを手にした時、思ったよりも小さく軽いのに驚いた。兵士になった証ともいえる認識票。アメリカ軍のスラングで言うならドッグタグ。ハリウッドの戦争映画でよく見かけるのは、角ばった楕円形のメタルプレートだが、ここが日本だからなのか、それとも女性用だからなのか、私に与えられたそれは少し形が違っていた。掌で、銀色のボールチェーンがきらりと光る。これからしばらくの間、外出の際には肌身離さず付ける事になるのだろうが、あまり実感が湧かなかった。

そもそも、まだ見習いのような自分が付けていいものなのだろうか?ゆくゆくは立派な兵士になりたいと思うが、入隊したてのペーペーだった私は、何となく不安と戸惑いを拭えなかったのだ。決してひけらかすつもりはない。けれど、自慢げに思われたりしないだろうか。結局付け時が分からないまま、それは、しばらく机の中にしまわれる事になってしまった。

そんな風に私がぐずぐずしてる間にも、兵役に向けて容赦ない肉体改造が始まった。耳にしてはいたけれど、実際体験するとなると段違いの辛さだった。身体は疲弊し、碌に食事も喉を通らない。食べなければもたないと分かってはいるのだが、水分を飲み込むだけで一苦労。無理に食べても戻してしまうのだ。一日中怠さが付き纏い、横になっても一向に楽にならない。こんなに辛いのは最初だけだ、兵士に相応しい身体になる為なのだと、自分に言い聞かせ必死に耐えるしかなかった。

勿論、兵役にかまけて日常生活をおろそかにするなんて事は許されない。毎日、重い体を叱咤しながら仕事へも向かった。あちこち悲鳴をあげる身体で、どうにかこうにか地下鉄へ乗り込み、息を弾ませながら階段を上る。とにかく、一日を無事に終える事だけを考えて過ごした。事情を知る職場のメンバーが助けてくれなかったら、そのうち倒れていただろう。

仕事を終えて帰宅する途中。地下鉄の駅で、ベンチから立ち上がれなかった日は数えきれない。真夜中、トイレでうずくまって、どうか仕事が始まる時間までには治まっていますように、と祈りながら吐いた事は、きっと忘れられないと思う。

先輩から、認識票を付けていない事を指摘されたのは、その頃だった。付けた方が良いと、強く言われ、私は戸惑った。私の中で、それは未だ小さな後ろめたさの象徴だったからだ。自分なんて半人前だし、付けても付けなくても大差ないだろうと考えてもいた。

加えて、認識票についての衝撃的な噂も、私を躊躇させていた。街中でそれを付けていると、男性からあからさまに邪険に扱われたり、暴言を吐かれたりする事があるというのだ。さらに、志願しているのに未だ兵役を課せられない女性からは、「配慮が足りない」と、なじられたりする場合もあるのだという。初めてそれを聞いた時は、信じられなかった。想像すらしていなかったし、そんな馬鹿な、と思った。おそらく、一部の人々の特殊な例だと思うのだが、噂から受けた衝撃は私を尻込みさせるのに充分すぎた。ただでさえ心身共にボロボロなのに、もしもそんな悪意をくらったら致命傷だ。

曖昧に言葉を濁す私に、先輩は言った。半人前の今、外見からも兵士とは識別できない今こそ必要なのだ、と。有事の際、あれを付けていない事で適切な処置が施されない場合がある。その結果、最悪の事態に陥る場合もあるのだと教わり、私は自分の認識の甘さを知った。噂を怖がっている場合ではなかったのだと肩を落とす私に、先輩は優しかった。必ずしも目につく場所に着ける必要はないけれど、いざという時の為にせめて持ち歩くようにと諭され、その日、私は机の中からそれを取り出した。

そして、「いざという時の為」そう呟きながら、お守りのような気持ちでボールチェーンを鞄の持ち手に取り付けたのだった。

辛い事も多かったが、兵役は決して悪い事ばかりではなかった。街を歩けば、今まで何故気づかなかったんだろうと思うくらい、同じ境遇の人を見つけるようになったのだ。揃いの認識票を付けた人には、勝手に親しみを感じてしまう。「お互い頑張ろうね!」と、思わず心の中でエールを送った。所属が違うのか、それとも入手経路が違うせいかは分からないが、私とは違う形状の認識票が沢山存在しているのだという事も知った。既に戦地に赴いたことのある人に対しては、尊敬の念が高まりすぎて、思わず拝んでしまう程だった。時には、第一線をしりぞいた大先輩から激励の言葉をかけられることもあった。クタクタの体を引きずるように歩く私に、優しい言葉をかけてくれる人や、電車で席を譲ってくれる親切な人にも沢山出会った。涙が出るくらい嬉しかった。

徐々にそれらしくなっていく身体の変化も、また新鮮だった。初期に経験した地獄の肉体改造のおかげで、当たり前にご飯が食べられる喜びを知ったし、お腹が空くことのありがたさが分かった。ぐっすりと眠れる心地よさ。自分の一部が、目に見えて変化していく驚き。今まで、ぼんやりとした知識だったものが、急に身に迫って感じられるようになり、今も毎日が発見の連続だ。たとえ、お酒やチョコレートといった嗜好品が根こそぎ禁止になっても、気が遠くなりそうなほど無数にある規律に縛られようとも、今それに耐えることが必要なら、やってやろうじゃないかと前向きに挑んでいけるようになった。

今日も、私の鞄の内側には、ハートマークがプリントされた白いビニール素材がボールチェーンでぶら下がっている。つるりとしたハートの中には、大小二つの人影。そして、「おなかに赤ちゃんがいます」の文字。

もし、これを手にすることがなければ、この小さなマークが、何の為にあるのか考えもせずに過ごしただろう。戦場で、もしもの事があった時、兵士の身元を特定するドッグタグのように、いざという時の為に身に着けるものである事も知らないままだったと思う。

万一、倒れた時や事故に遭った時、見た目で妊婦と分からなければ、投与してはならない薬を処方される危険があることも。説明する余裕もないほど切羽詰って具合が悪くなった時、これがあれば周囲の人達を混乱させなくてすむことも。そして、その意図を理解しない人から、一方的に傷つけられた人がいた事実も知らなかっただろう。

けれど、私は知ることが出来た。ましてや、見知らぬ人から親切にしてもらうという経験までさせてもらえた。お腹の中にいる我が子の成長と同じくらい、私はそれがとても嬉しく、心底ありがたく思える。

もうすぐ、私は出産・育児という戦場へ向かう。お守り代わりのボールチェーンを外す日も近い。正直不安だ。絶対に痛いだろうし、出血だってするだろう。怖い。何しろ初陣なのだ。怖がるなという方が無理な話だ。

 

それでも私は待ったなしで向かってゆく。今まで幾多の女性達が挑んだ場所へ。

 

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