老いた父とは、シーソーのように。
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記事:大橋知穂(ライティング・ゼミ 日曜コース)
「ほら、ちいちゃん、お父さんの足みて。ストッキング履いていると、こんなにきれいなんだよ」
ズボンをうれしそうにめくりあげた父。厚手の肌色のストッキングで包まれた両足は、確かによくすらりと伸びている。歳のせいか毛深くもなく、そこそこイケている。
よわい85歳にして、カミングアウトか?
一瞬そんな思いもよぎる。
昭和・平成・令和を、世間一般の「まっとう」な価値観とともに生きてきた父。TVにLGBTのタレントさんがでると「おかまはキモチワルイからチャンネル変えろ」と言っていたが、歳とっていろんな鎧がとれて、本来の自分に気が付いたのか?
いやいや。
そんなわけないか。
2カ月前に蜂窩織炎(ほうかしきえん)という、漢字テストに出てきそうな病気にかかった。熱が38度6分も出て、左足のふくらはぎが真っ赤になった。足を見せないので、原因がわかるまで時間がかかってしまい、リンパ腺にも菌が転移して、とうとう入院した。こんなご時世だから、高熱が出ればコロナをまず疑った。PCR検査を受けるためにかかりつけ医だ、保健所だとこちらが、てんやわんやで掛け合ったことも何のことはない。陰性とわかるや否や、ご本人は、周りの心配をよそに「俺は、コロナにかかったなんて、これっぽっちも思ってなかった」とうそぶいていた。
退院後、足の赤味はひいたが、まだむくみでパンパンに腫れている。むくみを取るためにお医者さんに進められて、包帯を巻くとあら不思議! なんとむくみがあっという間にひいたのだ。まさに、目に見える効果だ。
それに気をよくした昭和の男は、さらなる効果を期待して、医療用ストッキングを履きだし、とうとうむくみのない、(ほぼ)美しい足を手に入れた。自分でうっとりしている、だけでは物足りず、娘に自慢しに来た、という訳だ。
歳とったよね。
できないことも面倒くさいことも増えたようで、なんだかんだと態度が投げやりになる。
一方で、子どものようにほしいものを真っ先に欲しがる。例えば、おいしいものは、まず自分が先に食べてしまう。そして、無邪気にストッキングをはいた足も娘に見せる。
30年前を思い出した。
明治生まれの祖父がそうだった。(ストッキングはないが)
当時はもっと家父長制が強い時代。祖父は、孫娘の私からしても祖父の言ったことは絶対、な感じがあった。
それがある日突然崩れた。
仲たがいしていたおばが、突然祖父に小さいころ虐待を受けたと言い出した。
真相は本人たちしか知らない。
でも、それはあまりに衝撃的で、家族の誰もが祖父に、けげんな顔を向けないではいられなかった。
そして、祖父は孫娘に向かって泣き出した。
信じてくれ、自分はやっていない、と。
あれだけ厳格なキャラクターだった祖父が、孫娘に見境なく泣いて懇願していた。
私はまだ10代だったが、
その涙に、もういいかな、と思ってしまった。
真実が何であれ、あそこまで自尊心を失った祖父が哀れに思った。だから、私は信じてあげるので良しとしよう、と。
あの時、私は、人間は誰でも老いて、誰でも弱い存在になる、ということを知った。
おじいちゃんは、それからどんどんボケていき、どんどん自分の好きなことだけをするようになった。そして、私は、それを受け入れるようになっていった。まるで、シーソーの一方が下がると、もう一方が上がるように。大人である存在と、大人に見守られる存在は逆転した。
さて、父だ。
まだ、おじいちゃんのレベルまではなっていない。
でもだんだん私のシーソーが上がってきているのを、徐々に感じる。
この感覚。祖父から、次は父の番なのだな、と思う。
その分、覚悟もできている。
父のPCは最近「おっかしい」ことがしょっちゅう起こる。
知らないうちに文書がなくなった。
知らないうちにヘッダー・フッターに切り替わってしまい、本文に戻らない。
知らないうちに縦書きが横書きになってしまった。
知らないうちに起きた「おっかしい」ことは、お察しの通り、1分で解決できることばかりだ。それでも父はまだ「おっかしいなぁ。なんで元通りになるんだ?」と首をかしげている。
ある日、また「おっかしい」ことが起きたので呼ばれた。印刷ができないという。
ハイハイ‥‥‥と、印刷がオフラインになっているのをオンラインに切り替える。
その時、見るとはなしに画面の文書が見えた。
「神様、どうか私から言葉を奪わないでください」
そんな書きだしで始まる短文だった。
なんでそんなことを書いたのかはわからない。
でも、日記を毎日書くような父だ。表現したいのに言葉が出てこない、論理的に説明できない自分を、実はわかっているのだ。そして、そのふがいなさ、やるせなさをどこかに書き留めないではいられなかったのかな、と思う。
のんきなだけじゃなかったか。
老いていく祖父や、父を通して老いの作法は知っているつもりだった。
でも、自分自身が老いていく歯がゆさは、私はまだ知らない。
老いは、弱さやダメさをお互いに受け入れていくプロセスなのかもしれない。
「いいよ」「やるやる」「大丈夫」そんな言葉が日々増えていく。溜息つくことも多いけど、それでもなんだか楽しい。
シーソーのように、ぎったんばったん。
敬老の日に。
まずは元気でいてくれて、ありがとう。
≪終わり≫
***
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