だし巻き卵の端っこは、まだあんたにあげてもいいとは思っている《週刊READING LIFE vol,107「I love you』を訳してください」》
記事:青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)
ドン、ドン、ドン、ドン、……。
7:30AM。
2階から降りてくる、少し重い感じの足跡が近くなってくる。そしてリビングのドアが開く。
「おはよう」
「……」
いつものように返事はない。
私は黙って身支度を済ませる。忘れ物がないか最後にチェックして再度声をかける。
「……じゃ、もう行くわ。今日は荷物が届く予定だからもし家にいたら受け取っておいて。よろしく」
「ああ」
聞いてるんだかいないんだかわからないような声で返事がある。
いつものことだ。それももう結構な前から。
考えても仕方のないことを振り切るように、玄関の鍵を閉めた。
次男の引きこもりが始まったのは、いつの頃からだろうか。
大学3年の夏くらいになってそれまでやっていたアルバイトを辞めて、貯めたお金で自分専用のゲーミングPCを購入したのが始まりだったのかもしれない。当時2歳上の大学院生の兄と一緒にゲームを楽しんでいたのを覚えている。
最初はそれも仲がよいからなどと思っていたけど、3年の夏休みになってもインターンシップに応募するわけでもなく、企業研究をするわけでもない次男を見て「おかしいぞ」と思い始めた。「どうにも潰しの効かない文学部の男子学生なんて死ぬほど就活大変だよ?」と、入学した時から耳にタコができるほど言い聞かせては来た。年が明けて、本格的な就活時期が来ても一向にエンジンがかからない次男を見て、親としても流石に見逃すわけにはいかなかった。
「就活どうなってるのよ。なにか動きなさいよ」
「ああ」
「ああ、じゃないでしょ。お兄ちゃんもやってるんだから一緒に考えたらいいじゃない」
「わかってるって」
2歳年上の長男も、大学院2年となりいよいよ就活となっていた。長男は理系の研究室なので学校推薦などもあるし、そもそも送られてくる会社資料の数の桁が違う。いつの時代も理系は最強だし、黙っていても向こうから来てくれる。
ところが文学部4年の次男のところに来る会社資料は、長男の数分の一という感じだった。そこそこ大手企業も入っていたけど理系に比べたら数としては全然少ない。おまけに自分自身で行きたくなるような企業も入ってはいなかった。自分で資料請求して取り寄せてはいたけど、まずはその資料の数の差からして次男は就活へのやる気をなくしているようだった。
それでも長男も就活しているからということで、次男は一緒にエントリーシートを書いたり、企業に応募したりはしていた。しかしながらインターンもせず企業研究もせず、ふらりと「はいやってきましたよ、僕を入れてくれませんか?」みたいないい加減な学生が最終面接まで行けるわけもないのだ。一応は自分で希望する業界もあったようだけど、次男はことごとく落とされた。人手は足りないと言ってはいるけれどそれはあくまで現場での話で、基幹職に出来の悪い人間を入れるわけには行かないのは当たり前だった。
そうこうしているうちに、長男に内定が出た。
学校推薦も取ることはできたけど、長男はそれをせずに自分が小さいころから親しみがあった企業に応募して採用された。
長男の内定した業界が次男も希望していたところだったことと、また内定までのプロセスがあまりにも文系とは違ってスムーズだったこともあり、もともと就活に前向きとは言えなかった次男はより一層引き気味になった。応募しては落ちを繰り返すうちに、それでも8月の終わりになって、終業後駅に向かっていた私のスマートフォンに次男からLINEが来た。
「内定出たよ」
よかった……。とりあえずどこでもいいから内定を持っていればいいじゃないか。そう思っていた。
ところがそれも束の間、よくよく訊いてみると自分が希望した部門ではないところに採用されていたことがわかり、次男は10月の内定式には出たものの、その企業に対して後ろ向きになっていた。
そのことも気になってはいたけど、いよいよ卒業に向けて準備をしないといけないという段階になり、ゼミや卒論に真剣に取り組んでいる様子が全く感じられなかった。私は次男を問い質した。
「卒論、ちゃんとやっているの? 大丈夫なんでしょうね」
「ああ」
この子が「ああ」っていう時は、大抵そうじゃない時なんだよな。
なんとなく嫌な予感がしながらも暮れになった。もしかしたらと本人を問い詰めた。返ってきたのはこんな答えだった。
「卒論は書いていない。何を書いたらいいのかもわからない」
薄々、感づいてはいた。
わかってはいたけど、一番聞きたくない答えだった。
「何やってたの。なんで書かないの。卒論タイトルは登録したんじゃなかったの? ゼミはどうなっているの? 先生は何と言っているの?」
「ゼミはもう行かない。先生も、ゼミの時だけ名古屋からやってくるだけで常勤でもないし、何にも親身にはなってくれない」
「誰か同じゼミの人とか、学科の友達に相談してみればいいじゃない」
「うるさい! あんなゼミ、二度と出るか! あんな奴ら、二度と顔を合わせたくない!」
そう言って次男は激昂した。
「一体何があったの。どうしてそんなことになってしまったの」
最初は怒っていたけど、ぽつりぽつりと次男は話し始めた。
彼の話を総合すると、大学3年からゼミに参加していたが、その中でちょっとしたトラブルがあったらしく次男はゼミのLINEグループの中で1学年上の先輩に怒られたらしい。何をやらかして怒られたのかは話してくれなかったけど、そのことで次男は大いに立腹してゼミのLINEグループを抜けてしまったらしい。同時にゼミの同学年の子たちとも距離ができ、学校に行っても孤立していた……。
そうか、それで3年の途中から家にこもりがちになっていたのか。ようやく合点がいった。
どうしてこうなってしまったんだろう。
その時々でいろいろあったけど、進路も本人がいいようにさせてきたつもりだ。それなのに、どうして。私も途方に暮れてしまった。
結局次男は、その年は卒論を書くことができなかった。
家族で話し合い、中退よりは留年の方がいいだろうということになった。心から納得して内定していた訳ではなかった企業は辞退することとなった。
居場所がなかった前のゼミの担当教授は定年で退職し、後任の教授が着任したゼミに次男はお世話になることになった。いろいろと葛藤はあるだろうが所属しない限り卒業もできない。こうして次男は留年してリスタートを切った。
1年前に同じ就活の土俵にいた長男は春から社会人となり独立し地方勤務となり、家には私たち夫婦と次男が残った。
1年くらい留年しても、新卒の就活なら企業はそんなに大きな問題としては見ないであろうから、ちゃんと就活しなさいと諭してはいた。学校の授業にはどうにか行ってはいたけど、次男は一向に就活をする気配はなかった。
「今就活をすれば問題ないじゃない。卒論も単位もきちんとすればまだ取り返せる。ちゃんとやりなさいよ」
「無理」
「どうしてやる前から諦めるの? 全然取り返せるじゃない」
「自信がない」
「友達とうまくいかなかったからと言って自分の人生をスポイルする必要なんてないじゃない。やれるだけやってみればいいじゃない。就活だって、どこかあるかもしれないじゃない」
「だめなんだよ! もう、俺なんて無理なんだよ、無理なんだよ……」
次男は肩を震わせて泣いていた。
全てのことが悪いめぐりあわせで重なって、ゴロゴロと転げ落ちるようにしか本人には思えなかったのかもしれない。
泣いている子を見つめながらぼんやりと思った。
いつの間に、こんなに大きくなったのだろう……。あんなに小さかったのに。
小さいころは明るくて、いたずらっ子で、調子に乗るといろいろやらかしていて、でも人懐っこくて隣にいる知らない子とでもすぐに友達になれるような子だった。そんな子が大の大人になって、難しい顔をして、自信がないと言っている。大声をあげて泣いている。
どうにかしてあげたいと思う。でももうここまで来たら親のできることなんてたかが知れている。彼だっていい大人だ。だから手取り足取りすることはもうできないはず。自分で自分の方向を見つけてもらうしかないのだ。
留年1年目は、次男は足りない単位を取り返すべく頑張って授業に通い、やっとこさ形だけかもしれない卒論を仕上げた。どうにか苦心して出した卒論の出来は良くなかったけど、とりあえず通してはもらえた。やれやれ、仕事は決まってはいないけど大学は卒業できると喜んでいたのも少しの間だけで、進級会議が終わってわかったことは卒業に必要な単位があと4単位足りていなかったということだった。
たったの4単位かよ……。
「あんたが単位は大丈夫って言ってたからすっかり片付いたと思っていたのに、バカじゃないの? 全く何やってるんだ」と我々両親は流石に怒った。
怒ったけど、では4単位足りないからここで子どもを中退させた方がいいとも思えなかった。学歴は関係ないと言いつつも、まだまだ日本は立派な学歴社会であり、高卒よりも大卒の方が職業の選択肢が多いことは明らかだからだ。
散々話し合い、余分に出した学費については将来的に親に還元するようにと口約束ではあるが本人にさせて、彼は2回目の留年に突入した。
「足りないのは4単位だけど、あんたのことだからまた何か落とすかもしれないから多めに取っておきなさいよ」と声をかけ、本人なりに登録していたようだった。ところがそこにやってきたのはコロナ禍だった。大学のキャンパスへの入構は禁止となり、授業は全てオンラインとなった。
一昨年の学部4年の時と、去年の留年1年目を見ていて、本人が納得したり必要に迫られないと就活には動かないとわかっていたし、私は私で自分の仕事やライターへの道筋をつけることで精一杯で忙しく、次男に対して余計なことを言っている余裕もなかった。コロナ禍でもあるし、これまでのいきさつもあるけど、就活よりもまずは卒業することが優先ではないかという結論に達し、次男は自宅でオンライン授業を受けていた。卒論はクリアしていたので、前期の半年間で卒業に必要な4単位を確保して、9月ではあるけど大学を卒業することができた。5年半の大学生活、長い長い時間に思えて仕方がなかったが、ようやく終わった。
そんなわけで、次男は現在、まだ家にいる。
私たち両親はともにフルタイム勤務なので平日家にはいない。従って日中はどこかに出かけない限り、彼は1人で過ごしている。
1人きりなのに、収入もないくせに毎日コンビニやスーパーに昼食を買いに行かれたり、外食されてもたまらないので、次男の昼食は、朝弁当箱に詰めて作って置いておくのが習慣となっている。こう書くと「甘やかしすぎじゃない?」と言われるかもしれないが、無収入の人間が勝手に浪費することの方がよっぽど問題だと思っているので、他にやりようがない。そこは他人様が何と言おうと気にしていない。
そんなわけで平日の朝、夫と次男の弁当を作るのがなんとなく私の仕事になっているのだけど、大抵だし巻き卵を作っている。卵焼き器を熱してだしで溶いた卵液を入れ、くるくると巻いていると、ある時次男がやってきてこう言った。
「その端っこ、くれない?」
だし巻き卵の両端は余分な卵液が入ってくるので分厚くなりがちだ。そこをほしいと言っているのだろう。ちゃっかりしているなあ。
「いいけど、みんなここが好きなんだよ。毎回あげるわけじゃないからね」
一応そう釘を刺しておく。
3回巻いて焼きあがっただし巻き卵をいつも6つに切る。3人家族なので1人2切れだ。4切れを2人の弁当に入れて、残った2切れは私がいただく。
いつも誰がどこの部分のだし巻き卵を食べるとか、端から取る順番が決まっているわけではない。その時々の気分で私が誰にどの部分を与えているか決めている、と言った方がいい。
(居候なんだからそんなにいい想いさせたらつけ上がるよね……?)
そんなことも思わなくもない。
でも、なんとなく気が付いたら次男の弁当箱にだし巻き卵の端っこを入れていたりする。
かわいそうだから優しくしてる訳でもない。頑張ってほしいと願いを込めてあげている訳でもない。
親の欲目かもしれないけど、元々地頭が悪いわけでもないと思う。明るいと思っていたけど、よく考えると次男は繊細なところがあった。誰か支えてくれる友達や先生がそばにいないと、不登校になったりもしていた。中学時代に居場所がなくて、よく途中の乗換駅でサボっていると親に連絡が来たこともあった。よく笑うひょうきんな子だけど、裏を返せば傷つきやすい一面があった。よりによって、人生で一番既得権益がある新卒の就活期に、不運が重なった。それだけのことだと思っている。
こんな時にネットニュースを開くと、不安な文字が目に飛び込んで来る。
「いじめに遭って引きこもったまま中年になった」
「高齢の親が支える中年の引きこもり」
うちもそうなってしまうのだろうか。一抹の不安はある。不安はあるけど、本人ははっきり「働きたいし、働かないといけないと思っている」と言った。その言葉を信じたい。親が信じなかったら一体だれが信じるのだろう。
こう書くと、甘い親だとか、石を投げてくる輩も出てくることだろう。でもうちにはうちのやり方がある。うちの子どものことなんて何も知らないくせに、批判だけは一人前にしてくる人間は相手にはしたくない。そんなことは、話を最後まで聞いて、次男と話してみてから言ってくれ。
生きたい、働きたい、その言葉を聞いている。だから信じてあげたいと思っている。そのどこにも恥じることはないと思っている。だから堂々としていてほしいし、そう思っているのならばいつの日か自立に向けて動ける時が来る。今はまだ動けないかもしれないけど、親が子どもを見捨ててしまったらそこでおしまいではないか。まだ私は全ての希望は捨ててはいない。朝、だし巻き卵の端っこを誰に割り当てようか考える一瞬に、そのことがよぎるのだ。
□ライターズプロフィール
青野まみこ(あおの まみこ)(READING LIFE編集部公認ライター)
現在は団体職員。「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月より天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月より同ライターズ倶楽部参加。同年9月よりREADING LIFE編集部公認ライター。
この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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