記したかったのは、ひたすらに愛し合った2人の日々だけ
*この記事は、「リーディング・ライティング講座」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:河瀬佳代子(リーディング&ライティング講座)
「ミューズ」という言葉がある。
ウィキペディアによると、「ギリシア神話の女神、「ムーサ」の英語名(複数形)。音楽・舞踏・学術・文芸などを司る」ということだ。使われ方としては、己のインスピレーションを呼び起こさせてくれるような女性を指すことが多い。実際に芸術家が理想の女性を見つけて、創作の対象としている有名な例もたくさんある。
『安部公房とわたし』(2013 講談社)を見つけた時、正直とても戸惑った。
あの女優の山口果林は、故・安部公房のミューズだったのか、と。
私にとって山口果林は馴染みがある女優とは言えないけど、時折メディアで見かける役は控えめながらも重要なものが多かった。大御所というイメージしかなく、俳優界では一定の地位を築き実力がある人だと思っていた。だからこそ、彼女が齢の離れた大作家に愛されていたこと、大作家に家庭を顧みなくさせたことが信じられなかったのかもしれない。当時そのことを知っていた人は大勢いたと思うが、私はそのことを理解するには世代的に幼すぎた。だからずっと後になってそのことに改めて触れ、大いに驚いている。
初めて書店で見つけた時、少し立ち読みをした。その本の大胆さにもさらに驚いた。
書かれていることがあまりにも細かい。
そして、書籍の中に使われているどの写真を見ても、ただひたすらお互いがお互いを愛でているとしか見えないのだ。
いつどこで出会って、どんなふうに交際するようになったのか。公房が家を出て果林と暮らすようになったきっかけはなんなのか。マスコミを避けながら、公房の家族の追求も気にしながらも過ごす時間。そこには、2人の愛の日々が克明に記されていた。購入しようかずいぶん悩んだけど、どうしても全て読みたいという欲に押し切られて結局手に入れてしまう。
生い立ち、安部公房との出会い、そして彼との生活、看取りまでを読んだ人は誰しもがこう思うだろう。「彼女は、何故ここまで詳細に記したのだろうか」と。
この本の出版は公房の死から20年後の2013年である。没後20年、これまで胸に抱えてきた公房との日々を記すには十分な歳月が流れたと思ったのだろうか。
手記が細やかであるということは、それだけ一緒に過ごした記憶も深く、この先ずっと抱えて世を去っていくのは耐え難かったようにも思う。断片的にしか書いてはいないが、夫人との確執を読む限り、愛人という立場の複雑さは果林を強く苛んでいる。それと同時に、公房と過ごした日々に彼女が心の拠り所を見出したこともわかる。年齢差も境遇も違う二人が出会い、最初は恐る恐るだった関係がかけがえのないものとなっていった。これほどまでに強烈な体験、しかも全て隠さねばならなかったという苦悩も含めた体験をしたら、それを忘れて生きるということは最早できなくなるのではないだろうか。
公房にとって、果林はまさにミューズだった。彼は果林に創作の泉を見出し、そして愛しているからこそ生まれる憎しみやわがまままでも果林にぶつけた。また果林も公房から大いに影響を受け、自身の役者人生に反映させていた部分はあったに違いない。お互いに、うわべだけの関係の中では決して見せない、自分の弱みまでもさらけ出せる相手だった。惹かれ合うなどという言葉では到底表現できないほどの、運命としか呼びようがない存在だったとしたら最早離れることはできない。公房の死後もなお、どこか面影を追いかけて彷徨っているような果林の姿もある。
人生に「もしも」ということは存在しない。人は皆、その時々で考えられる最善の選択をしてきたはずで、自分の決断に沿って生きてきた。ところが、最善と思っていたはずの人生に予想を超える出会いが起こるのもまた、人生なのだ。
愛し愛された日々の記憶を、恐らくだが世間からは賞賛だけでは済まないとわかっていながら敢えて伝えた果林の真意はわからないが、その記憶を記すことで自分が生きた証としたかったのではないだろうか。このままこの日々が埋もれてしまったら、自分という存在も全く無になってしまうのではないか。そんな気概を感じた。自分の存在意義を賭けてでも、どうしても記したい日々が、そこにはあった。そんな相手に出会った人は抗い難い運命に生きなければならないが、「愛にふける時間」という禁断の果実を味わってみたいような誘惑に駆られることはないだろうか。一度口にしたら元には戻れないとわかっていても、心のどこかでそこまで激しく愛に生きる日々を得た人が少しだけ羨ましいような気もするのだ。
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