炭酸の抜けたぬるいコーラに宿る幸せ《ユキヒラの覚書》
「高尾」という言葉を聞いた瞬間、僕の心は折れた。
JR中央線の終点の一つ、高尾駅。
高尾山にトレッキングに行く人々が降りる、高尾駅。
ぼくは、高尾駅にいた。
若者が、車掌さんに起こされている。
乗客は、ガヤガヤと改札口へと急ぐ。
僕は、茫然と立ち尽くしていた。
コートを着ていない我が身から、体温が奪われていく。
ぶるっと、体が震え、意識が引き戻された。
鈍器が押し付けられているような痛みの中にある言葉が浮かぶ。
「帰れない」「帰らない」
気だるい体を引きずりながら改札を出ると、明るい看板が目にはいった。
ネットカフェ。
ありがたい。とりあえず寝るところはある。
翌朝。
起きると、意外にも頭痛は軽かった。
しかし、喉がへばりつく。
昨日はビールを飲みすぎた。ネットカフェも乾燥しているようだ。
昨日の飲み残したコーラが目に入った。
いつ以来だろうか、一晩も放置されたコーラを飲むのは。
目の前にあるコーラの味を想像した。
甘ったるい砂糖水。
違和感を感じた。今想像した味は、本当に以前自分が味わったものだろうか。
甘ったるい砂糖水。
水の入ったコップの下に、山のように角砂糖が描かれたイラストが頭に浮かんだ。いつ見たかも覚えていない、コーラなどの飲料の危険性を訴えたポスターだった。
そこから想像した味だった。
決して、飲んだことがないわけではない。けれど、全く覚えていない。
僕が想像した味は、まさしく想像された味だった。
次の瞬間、こんな思いを抱いた。
この味は絶対に覚えておきたい。
なぜか。
僕は今、天狼院書店のライティング・ゼミに参加している。2週間に1度の講義を4ヶ月間受講する。その間、毎週記事を投稿し、店主がOKを出せば、天狼新書店のホームページに掲載してもらえるのである。さらに、メディアグランプリなるものが開催されており、仮に優勝すれば、大きな特典が与えられる。
開始3ヶ月のブログ程度でしか文章を書いていない僕にとって、メディアグランプリで優勝するなど夢の世界で、毎週の投稿でいっぱいいっぱいなのである。しかし、なるべくならいい記事を書きたい。だから、文章の幅を広げる体験が欲しいのである。
炭酸のぬけたぬるいコーラは、ありふれたものだろう。だからかもしれない。僕はその味を無意識に自分で想像し、思い込んでいた。これはなかなか面白い経験である。そして、これから感じる味わいは、美味しくないかもしれないが、非常に興味深いものになりそうである。
その味を覚えることも、それを覚えようと意識して炭酸の抜けたぬるいコーラを飲むことも、必ず文章に生きてくるだろう。
手を滑らさないよう、ゆっくりとコップに手を伸ばす。
喉が渇いていたことを思い出した。焦ってはいけない。慎重に。
コップの内側に気泡がない。炭酸が確かにぬけている。
コップを手に取った。まったく確かに冷たくない。
ゆっくりと、コーラを口元に持っていく。コップを傾ける。
!!!!! むせた。
甘くなかった。
いや、甘くなくもなかった。
想像ほどは甘くなかった。むしろ、意外にもすっきりしているくらいだ。口の中にねばるようなものも感じない。
なぜだろうか、不思議と美味しく感じるのである。
美味しい、という感覚の定義はさておき。なんとなく、美味しいのである。
僕はもう一度、炭酸の抜けたぬるいコーラを口にした。
面白い。
今この瞬間、なかなかに僕はワクワクしている。
こんなにも集中して、炭酸の抜けたぬるいコーラを飲んでいる。
ネットカフェで一夜を過ごしたにもかかわらず、嬉しさに溢れている。
幸せ。
それは丁寧な生活に宿る。
手紙をしたためる時間。
丁寧に相手の心を思い浮かべ、言葉を紡ぎ、筆を走らす。
柔らかな嬉しさに満ちた時間。
炭酸の抜けたぬるいコーラを飲みほした僕は、仕事に行くためスーツに袖を通した。
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