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あの日、わたしは運命の出会いをした


Tomokoさん あの日

記事:H. Tomoko(ライティング・ゼミ)

 

一目彼(彼女)を見た瞬間、空には稲妻が走り、周囲にはバラの花が咲き乱れ、ベートーベンがティンパニを打つ。そこまでドラマチックとはいわないまでも、あなたはそんな運命の出会いを信じるだろうか?

友人のそのまた友人の話である。スーパーのレジにたまたま隣り合って並んだ相手に「運命を感じて」しまったという。そこでつきあい始めて、3か月後には結婚していた。そりゃすごい。何がすごいかって、運命を感じたこともさることながら、レジで偶然隣り合った誰かに声をかけ、電話番号なりの連絡先をやり取りして、デートにこぎつけた、という行動をとったその勇気がすごい。二十歳前後の若いチャラ男が、「ねー、彼女、かわいいねぇ。暇ならお茶しない?」と、ナンパしたという話ならばともかくも、その二人は三十代の分別あるいっぱしの大人であった。いったい何と言って声をかけたのか? レジ打ちのおばさんは、さぞかし二人の会話に耳ダンボであったに違いない。

その一方で、腐れ縁で気がついたら、という夫婦もいる。「学生のころからずっと友達だったんです。全然タイプじゃなくって、男としてなんか見ていなくって。だから失恋すると慰めてもらったりしていたのに、まさかこうなるとは思わなかった」という話である。これもまたよく聞く。

運命の出会いは、偶然なのか、必然なのか? どちらもありだが、どちらでも関係ないんじゃないの、と思わなくもない。数年経って振り返り、その出会いが「初めからわかっていた」にせよ、「こうなるとは思わなかった」にせよ、それでも「あれが運命でした」と言い切れば、すなわち運命。

ただし、そんな運命を感じた二人の結婚でも、三組に一組は離婚に至る、という統計を見てみれば、まあ、結局思い込みの世界なのねぇ、と言えなくもない。「あなたには夢がない」と、恋に恋する年代には言われそうな意見である。が、ふん、オバサンになるってのは、そういうことさ。

それなのに、である。
そんなわたしなのに、である。
運命の出会いを、してしまったのだ。

そもそもわたしは恋愛市場から足を洗って十年ほどになる。「逃した魚は大きい」だの、「大海に魚はいくらでもいる」だの、「北北西には大物がいるらしい」だの、まるで魚群探知機を駆使して一本釣りを試みるマグロ漁船の船員のような会話を女友達と交わさなくなり、地味ではあるが平穏に凪の日々を送っていたわたしなのに、である。

ただし、今回のお相手は「妙齢で華麗な紳士」とは言い難かった。
四角四面の堅物である。
四角いにもほどがある、というぐらいの四角さである。
なんせ、相手は本だったのだから。

書店員のみなさんには睨まれそうだが、私は祖父が亡くなる前に、「決して本屋に足を踏み入れてはならぬ」と言われた身、どんなに書店好きでも行けないのである、というのはもちろん冗談で、海外暮らしのため和書をなかなか入手できず、某A社のオンラインストアにて、某Kアプリを使い、電子書籍を購入している。「この本を買った人はこんな商品も買っています」というお勧め一覧を眺めていると、一冊の本が、突然ゆらりとゆらめいた。あるいは一瞬キラリと輝いた、というべきか。「なんだろ、今の? まるで本にウィンクされたみたい」 直感で、これはもしやと購入したところ、大当たりの一冊だったのである。

2016年の1月もまだ終わっていないのに、今年のベストワンになりそうな勢いだ。こんなことってあるのかしら? これぞ運命! 少なくとも、私はそう信じ込んだ。

思えば、本との出会いは、恋愛に似ている。

一晩読んで「面白かった。ハイ、おしまい」ならば、それは一夜だけのおつきあいである。あるいは、お気に入りの本として、数年ぐらいは本棚に並ぶことがあるかもしれない。そう悪くはない相性だが、ソウルメイトと呼ぶには不足がある。あなたはこれまで人生を変える本に何冊出会っただろうか? そしてこれから何冊出会うだろう? 運命の人同様、そう多くないに違いない。

たが、出会いが偶然にせよ、必然にせよ、運命と呼ぶには、二つ条件があるのではなかろうか。

一つ目は、「出会いの後、どんな行動をあなたがとったか?」である。
ああ、この人こそわたしの待ちわびた人! と思ったならば、声をかける。デートに誘う。プロポーズする。そして「二人は末永く幸せに暮らしました。おしまい」ではなく、そこからまた長い年月をかけて理解を深めていく。死が永遠に二人を分かつまで。

本も同様。
これぞ! と見初めた本だとしても、その後何を考え、どのように行動したか? 読み返しては学びを血肉としたか? 「釣った魚にエサはやらない」とばかり、何もしなければ、運命の糸を紡ぐことはできない。言い換えれば、あなたの行動そのものが、「通りすがりのただの本」と「人生を変える一冊」の分かれ道となるのだろう。

二つ目は、「時の審判を待たねばならない」ことだ。
これはすごい! と思う本でも、時と共に興奮は薄れていく。数ヶ月経ち、数年経ち、気がついたら「そういやそんな本もあったけ」では、審判に「失格判定」されたと言えよう。わたしにウィンクをした本も、本当の勝負はこれからなのだ。なんせ、ライバルは山ほどいるのだから。

振り返れば18年前、渡米したわたしは駆け落ち同然だった。「どれだけ魅力的なのか、前の女は知らなかったんだわ。私ほど、この本のすばらしさを理解している人はいない」と思うと、さらに愛おしさがこみ上げた。飛行機から降り立ったわたしの手の中にあった一冊は、もとはと言えば他人のもの。裏表紙には「¥100」の値札がついた古本である。だが、これがなければ、わたしは今ここにはいまい。よろよろにはなってはいるが、未だ恋をしている一冊である。間違いなく、時の審判を生き延びたわたしの運命の本。

さて、そのウィンク本に熱い視線を送られ、わたしははっと気がついた。

これはもしや、モテ期到来⁉︎

「運命の男」は、いまさらどうでもいい。だが、「運命の本」とは、いくらでもめぐりあいたい。忘れていたマグロ船員的情熱が蘇った。ウインク本に「また次のに手を出したの?」と呆れられても、駆け落ち本に「浮気者!」と罵倒されても、かまわない。できれば直接出合って肌を触れあい、確かめあいたいと願うのに、祖父の「書店立ち入り禁止令」により、それもままならない。ならば、人目を忍びA社のアレンジするオンラインデートにて次の出会いを求めるまで。運命の花嵐を呼ぶには、まずはともあれ行動から。書籍的肉食女子もといオバサンかくあるべし、なのだ。

2016年。運命を信じているあなたにも、信じていないあなたにも、すばらしい出会いが訪れますように。

 

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2016-02-11 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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