メディアグランプリ

男は40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持てなどと、誰が言ったのだ。


西部さん 男は40

記事:西部直樹(ライティング・ゼミ)

 

私にはおそらく生涯治ることのない業があります。
それは、生まれ持ってきたまさに「業」としか言いようのないことなのです。
その業のために、どれほど私が苦しんだことか。
貴女にはわかるでしょうか?

その忌まわしい「業」とは
大顔 です。
人より大きな頭をもち、大きな頭に比例した大きな顔を持ち……

……

この文章は、およそ30数年前に書いた恋文の冒頭である。
なぜ、恋文なのに、こんな落とし話的なことを書いたのか、
若すぎた私はその女性の気を惹こうと、必死だったのである。
笑いをとれれば、何とかなるのではないかと思っていたフシがある。
しかし、これでは、その恋は……(以下11万3482字削除)
と、残念な結果に終わったのである。

恋は儚く消えた。
しかし、わたしの頭は変わらない。
頭が大きいというのは、なかなかこれは面倒なことである。

何しろ、身を守る術がない。
近眼とか遠視とか、老眼とか視力に関して、これが大きな顔をしていると、いささかやっかいである。
メガネがない、いや、あるのだが、試しのかけてみることが躊躇われるのである。
視力が悪くなり、眼鏡店の店頭でメガネフレームを物色している時、おおこれはなかなか良いではないか、と思ってもスッとかけることができない。
普通人仕様のフレームを装着しようとすると、かなりの勇気を要する。
そのままの幅では収まらない。わが顔には。
わたしの顔は大きいので、普通人仕様の幅では、こめかみ辺りで止まってしまうのである。耳に掛けるフレームの部分が、これ以上はムリといって、止まってしまうのだ。
やれやれ。
仕方なく広げる、顔幅に合うように。これは勇気がいる。フレームは壊れないのか、あるいはムリに広げてそのままになってしまうのではないか、不安とか恐れ、戦きが交錯する。
顔幅に広げたフレームをおそるおそる顔に近づけ、ツルを耳に掛けようとすると、何ということだ、耳にかからない。無理矢理広げたので、耳のところが反り返って外側を向いてしまっているのだ。
なんともはや!
反り返ったメガネフレームをそっと元の場所に戻し、形は……。
わたしはその眼鏡店をあとにするのだった。それ以来その店には足を踏み入れていない。

とまあ、なかなか大変なのである。
メガネはなかなか大変であるので、今は基本コンタクトレンズを装着している。
しかし、夏の時期ともなれば、強い日差しが眩しい。紫外線は眼に良くない。
なので、サングラスを掛けるように家人からの指令が出る。
逆らうことはできない。
サングラスも眼鏡と同じである。
我が顔に合うものを見つけるのは大変なのだ。似合う以前に顔に納まるかどうか。

顔幅があるということは、頭の周囲もかなりのものであるということである。
これは、なかなか哀しいことである。
頭髪に問題が生じ始めた頃のことだ。
その問題というは、わたしの意に反して、わたしの体の一部であるところの頭髪たちが頭部から離脱をはじめたのである。
これが潔く、「総員離脱!」なら、立派なものなのだが、散発的に離脱するものだから、このなんというのか徐々に薄くなっていくという、おぞましい状態なのである。
しかも、頭頂部ややうしろ寄りのところからはじめるものだから、本人は気がつきようがない。散髪のときに散発的に離脱しているのを不承不承確認するのである。
理髪店の方が、「お客様、どうですか」と仕上がりを親切に鏡を使って見せてくれる。その時図らずも頭頂部ややうしろ寄り部分の地肌がハッキリと見えることをも確認してしまうのである。

これはまずい、何かがまずいのではないか、と思い立ち、この散発的離脱状態を世間に曝すのは、世間の方々にこの、なんというか、申し訳ないことである。

それを隠す方向で考えてみよう。隠す方法として、パーカーなのどのフードで覆う、しかしこれは寒い季節しか機能しないし、そもそもフード付きの衣類を持っていない。ターバンを巻くというのもあるが、これは大きい頭がますます大きくなってしまうではないか。手ぬぐいで頬被りをするという方法も考えられる。しかし、これは隠れるが、この姿で大通りを歩くのは返って目立ってしまう。
もちろん人工の毛髪で覆うということも考えられるのだが、それは、かなりの資金を要する。

それで、帽子屋に行ってみたのである。
するとどうだろう、専門店にもかかわらず、わたしの頭を覆うことができる帽子は皆無だったのである。
その店主は申し訳なさそうに
「う~ん、10万人に一人の頭ですね」と慰めてくれた。
10万人に一人というと、日本では1000人あまりしかいないということではないか。
その中で、帽子を被ろうという男性は、その半分のさらに何分の一か、その極僅かな人のために大きなサイズの帽子は作られない。

なんとも辛い「業」である。

 

自らの顔は、遺伝子の配列で決まってしまうので、どうしようもないものだ。
どうしようもないにもかかわらず、顔に関して、こうもいわれる。

「40歳過ぎたら男は自分の顔に責任がある(Every man over forty is responsible for his face)」と、かのアメリカリンカーン大統領は言った。
また、
ジョージ・オーウェル(『動物農場』や『1984』を書いたイギリスの作家)は、
「50歳になると、誰でもその人の人格にふさわしい顔になる」という言葉を残している。

40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持ち、そして50を過ぎたらその人格にふさわしい顔になる、のである。

40歳も過ぎれば、それまでの生活や仕事で培われたものが顔に表れるということなのだろう。笑いながら過ごしていれば、そのような顔になるだろうし、暗く生きていれば、そのような表情が現れるのだろう。
それが積み重なれば、その人にふさわしい表情、シワやシミや何やらが刻み込まれ、その人を表すことになる。

さて、「業」を背負った私の顔は、40歳を過ぎ、50歳を超え、還暦近くなって、どのような顔になったのだろう。

 

先日、とある心理学系のセミナーを受けたときのことだ。そこで「ほめほめシャワー」というお互いを褒め合うという演習があった。ほぼ初めて会った参加者同士褒め合うのである。これがなかなか気恥ずかしくもあり、難しくもあり、しかし、気持ちのいい演習である。

褒められるのは少し気恥ずかしいものである。初めてあった人なので何も知らないから、褒めるのは難しい。しかし、褒められるとそれはそれは気持ちのいいものなのである。
私も褒められた、いろいろと褒められたのだが、一番印象に残っている褒め言葉がある。
それは

説得力のある顔ですね

である。

顔に説得力を持つに至ったか、と感慨深いものがある。
私の本業は「ディベート」の講師である。
ディベートは議論力を養成する教育技法だ。
議論のためには、説明する力、他者を説得する技量が必要だ。
その訓練をしている。
その成果がまさに顔に表れた、ということか。

妻に「説得力のある顔ですね、って褒められたよ」と報告をすると、彼女は
「ふっふっふふ」と笑うだけだった。
夫の顔が説得力あるといわれても、困惑するしかないだろうが……。

説得力のある顔、とはいかなるものなのか、
気になった方は、ライティング・ゼミやファナティック読書会(月1くらいで出席)で、確かめて下さい。
私の顔に何かを説得されたら、「いやあ、説得力ありました」とひとこと言っていただければ幸いです。

 

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、店主三浦のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。

【東京/福岡/通信】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?〜《最高ランクの「ゼミ」に昇格して12月開講!初回振替講座2回有》

 

 

【天狼院書店へのお問い合わせ】

TEL:03-6914-3618

【天狼院公式Facebookページ】 天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。

【天狼院のメルマガのご登録はこちらから】

メルマガ購読・解除

【有料メルマガのご登録はこちらから】

バーナーをクリックしてください。

天狼院への行き方詳細はこちら


2016-02-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

関連記事