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研修医の春、どうしてもあの患者さんと話せなかったこと


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記事:庭瀬 亜香さま(ライティングゼミ)

今ならわかる。あのときあの患者さんと話せなかったのは、自分の中にある恐れをみたくなかったからだと。

もう9年も前になる。医学部を卒業して、研修医として私は関東のある県立がんセンターの消化器外科で医者としての第一歩をスタートさせていた。ちょうど10年遅れで医者になった私にとって、将来の専門として外科は完全に選択外だったが、医療制度改革で、医師国家試験を通ったら必ず2年間で内科・外科・救急・小児科・産婦人科・精神科・地域医療を一通り経験しないといけなくなったため、外科も数か月間、研修医として働くことになった。

亡くなった父が元々は消化器外科医だったため、父がどんな世界を生きていたのか知りたかったのもあり、内科志望だったけれど、消化器外科はそれなりに楽しみではあった。

一応、医師ではあるがなりたての研修医に高度ながん治療を研修医に任せられるはずもなく、最初は毎朝の採血や点滴のルートとりといった看護師業務に近いことからはじまった。私のいた消化器外科では、毎朝6時半ごろから60人位の入院患者さん全員の採血を研修医3人で手分けして行い、7時半から全体ミーティング、8時過ぎから手術の助手、それが終わるのが昼頃から遅いと夕方から夜、更に検討会や勉強会をして夜遅く帰る、というのが日々のパターンだった。

それなりに忙しい毎日であったが、大学病院ほど指導医がはっきりしておらず、消化器外科医全員にいろいろと学べるよさもあったが、逆にほったらかしでもあり、父や身近な友人が何人もがんで亡くなるのを間近でみて気合を入れて医者になったばかりの私は、かえってどうしたらよいかわからなくなってしまった。新米医師の私でも何かできないかと考えてみたが、当然がん治療、しかも外科手術などできるわけがない。せめて患者さんの話なら聴けると思い立ち、一番若手のN先生に相談したら、話すのは好きにしていいとすぐにお許しが出た。医学部の実習のときから患者さんと話すのが大好きだったので、早速、病棟の60人の患者さんを順番に詳しく病歴を聴き取ることを始めた。

聴き始めて驚いた。がんセンターだから当然入院患者全員がんなのだが、病気以前に、殆どの人の人生そのものがかなり過酷だった。がんになる前までも、トンネルで工事中に落盤事故にあい、更に自動車事故で大きなけがをして、何度も九死に一生を得た人もいた。小さいころ親に見捨てられ児童福祉施設で育ち、苦労してようやく仕事についたばかりなのに、若くして末期がんになってしまった人もいた。検査や手術の前後以外はベッドで寝ている患者さんが殆どで、調子がよさそうな時間を見計らって、なりたての研修医が話を聞きたいというと歓迎してくれた人が多かった。人生を聴くことで、なぜがんになったのかがより見えてくる気がして、1時間から2時間ほどかけて聴き取った話を、導入されたばかりの電子カルテに、長々と書きまとめることがいつしか私の日課になっていった。長々と病歴を書くことが、消化器外科の手技ありきの病棟に対して、新米医師の私ができた唯一の自己主張だったのかもしれない。

特に順番は考えず、ナースステーション近くの病室から順番に話を聞いていったのだが、順番に回っているうち、ある人の存在がものすごく気になりだした。ちょうど順番からいくと一番最後になる病室にいた食道がんの70代の男性だった。がんを発見したらすでにかなり進行しており、手術したけれどなかなか回復せず、しかも気管切開になり、話すことができなくなっていた人だった。いつもつらそうに眉間にしわを寄せて、人生の重荷に耐えているかのようだったが、背筋はいつもまっすぐでつらくても痛くても簡単にはあきらめないという決意を感じさせた。妻らしき初老の女性がいつも付き添ってこまごま世話をしているのだが、話せないもどかしさがあるからか、遠目からもいらいらしているのが伝わってきた。長年の付き合いらしいベテランの主治医とは筆談や目くばせなどで意思疎通はできていた。

あの人にも聴きに行かないといけない、とは思った。思ったのだが、しっかり自分で話せる人でさえ、病歴を全部聞くのは1時間では済まず、2時間近くかかることも多かった。筆談で、どこまで詳しく聞けるか、かなり疑問でもあった。何よりも、彼の人生全体に耐えているという視線がつらかった。彼の近くに行くと、その存在全体から、研修医で何もできないお前に何がわかるといわれているような気がした。

完全に自分がまだ未熟だからとわかっていた。わかってはいたけど、どうしても、彼に話を聴きに行くと考えるだけで、なぜかつらかった。なぜつらいのかもわからなかった。当時は、研修医にしては恵まれていた方だったが、それでも、早朝から研修医向けの勉強会、それに採血・点滴などの雑務、夜遅くまで検討会や勉強会や、その合間を縫っての縫合や検査の手技の練習や外科手術の術式の勉強、と徐々にそれなりに忙しくなり、一人一人に長時間病歴を聴いて回るのもかなり時間的にもつらくなってきた。それでも、空き時間に徐々に患者さんリストのかなり最後まで話を聴いていった。そして、最後、あと1週間というところで、例の70代の男性患者さんが入っている病室に辿り着いた。

ほぼ無意識に、同じ病室の反対側の人から話を聴き始めた。なんとか頑張れば、彼まで到達することもできた。でも、できなかった。いや、できないというより、どうしても足が向かなかった。もちろん見かけると会釈や挨拶はしたが、時間切れを理由に、かなりの罪悪感を抱きながら、最後、彼だけをリストに残して、私の2カ月間の濃密な消化器外科の研修が終わった。

医者になって9年目の春、今ではわかる。あの時、私があの患者さんとどうしても話せなかったのは、自分自身の中にある恐れを見たくなかったからだと。病棟で彼を見かけると、その目に射すくめられる気がして、自分の医者としての、そして人間としての未熟さを見破られるような気がして、どうしても行けなかった。彼の眼に映し出された私自身の中にある病気になることへの恐怖、自分や身近な人もそうなるのではないかという恐れを私は見たくなかったのだ、と。

医者になって9年間、いろんな患者さんにあった。彼以上に重症の人にも何人にもあった。逃げたくなった時もあった。医者であることをやめたくなった時もあった。けれど、あの時から、少なくとも目の前にいる患者さんには逃げないようにしてきた。逃げたら自分自身から逃げるような気がして。そして、またあの何とも言えない罪悪感を味わいたくなくて。

もしかしたら、その恐れが何か知りたくて、私は精神科医になったのかもしれない、そして、今でも恐怖感の先にある希望を知りたいから医者を続けているのかもしれない、と、そう思う。

今の私なら、ためらわず、部屋に入って最初に彼に向かうだろう。そして、言うだろう。

「今日は良い天気ですね。お話ししてもいいですか?」と。

 

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2016-04-19 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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