どうしても、それが許せないのです! と青年は嘆いた
「だからさ、彼に真実というものを教えてやってくれよ」
友人は、いささか投げやりに言った。
隣の青年は悩ましげに肩を落とし、蛸のザンギをつついている。
妖艶な人妻は、肩を露わにしたブラウスを震わせ、静かに笑っていた。
日本橋の居酒屋に、妖艶な人妻と友人、そして友人の部下とテーブルを囲んでいた。
北海道の町を冠した居酒屋である。
ホッケの開き焼き(大)は、四人掛けの小ぶりなテーブルの半分を占めるほどの大きさがある。
友人は、そのホッケの身をほぐし、うまいうまいと半分ほどを平らげている。
「それはなあ、そんなものなのだよ」私は静かに青年に向かって言った。
「そんなものって、アレはないでしょう」青年は少し気色ばんで言う。
「まだ、可愛いじゃないの。わたしは味噌汁だったわよ」
妖艶な人妻は、ホッケの骨を綺麗にはがし取りながら、少しつまらなそうに言った。
「味噌汁ですか?」青年はいささか驚いたようすで聞き返す。
「そう、味噌汁。それがね、違うのよ。わたしは白味噌だったの。生まれてからずっと。祖父母の家に行っても白味噌。それが味噌汁だと思っていた。でもね、相手は赤味噌だったのよ。白味噌の味に馴染んだものにとって、それは異世界よ。色も違うし。
わたしの作った白味噌の味噌汁を飲むと、『なんか違うなあ』といって飲み干さないのよ。
赤味噌で作った味噌汁にすると、喜んで飲むけど、やっぱり『なんか違うなあ』というわけ。
わたしも赤味噌の扱いに慣れてないし、自分の作った赤味噌の味噌汁は、馴染めないし。
で、思い切って汁物は吸い物にしたのよ、味噌を使わない。
それでね、今では子どもたちは、汁物はお吸い物だと思っているのよね。
たまに他所で味噌汁がでると、ビックリしているの。あはは」
妖艶な人妻は男山吟醸の升を傾け、ホッケをあらかた片付けていた。
「な、そういうことなんだよ」友人は鶏のザンギを頬張りながら、青年の肩を叩く。
「いや、味噌汁はなんとなくわかります。ウチはスープなんで大丈夫ですが……」
「なに、スープ! 日本人なら味噌汁だろう!」ごく薄い抹茶ハイを飲みながら、友人は青年を責める。
「どうも、あの匂いが……、朝はトーストですし」青年は少し縮こまりながら、余市ハイボールを飲む。
「いや、そうじゃなくて、食事なら、いくらか折り合いはつくと思うんです。しかし、やっぱり、下着は、そうはいかないでしょう」青年は、ハイボールのジョッキをテーブルに少し強めに置くと、私たち一人一人を見ていうのだった。
「もう一回いいますよ、本当に、これでいいのか、悩んでいるんです。
一昨日のことですよ、仕事から帰って家のドアを開けたら、妻がタンクトップと黒のショートパンツにエプロンをして台所にいたんです」
「いいじゃない、もうウチのはそんな格好してくれないよ」友人は寂しげに語るのだった。
「わたしは、ときどきする! 息子に怒られるけど……」妖艶な人妻は嬉しそうに語る。
「はいはい、それで、いいじゃない、新婚なんだから」わたしはしかたなく合いの手を入れる。
「ですから、問題は、タンクトップと思っていたら、わたしのランニングシャツだったし、黒のショートパンツと思っていたら、俺のトランクスだったんです」
「エプロンは?」妖艶な人妻が面白そうに突っ込む。
「エプロンは、普通にエプロンでした」ムッとしながら、青年はこたえる。
「でもね、トランクス、いいのよ。緩いから、風通しよくて」妖艶な人妻が青年に向かい諭すように語りかける。
「それにな、トランクスは隙間があるからな、いろいろと便利なんだぞ、ほら……」友人が赤ら顔で話しはじめる。
「まあ、そこの何が問題なんだよ。妻が夫の下着を身につけるのは、愛嬌だろ」友人の話がゲスに落ちる前に割り込んだ。
「ええ、可愛らしかったです……。って、そこじゃなくて、彼女は洗濯がダメなんです。干したのをしまうのが、どうも苦手というか嫌らしく、洗濯かごに取り込んで、そのままにしてしまうんです。
必要になったら、洗濯かごの中から適当に取り出す方式で……。
だから、その日は適当に下着を選んだらしく、それで俺のランニングシャツとトランクスをはいたらしいのです。
でも、洗濯物はチキンと畳んでそれぞれの場所にしまうのが、普通じゃないですか。
それを適当にするのは、なんだか、結婚生活が憂鬱になりそうです……」
最後は力なく肩を落とす青年を見ながら、年寄り三人組は密かに溜息をついた。
「普通」ではないかと憤る青年の気持ちはわかる、が。なのである。
三人は言い淀んでしまった。
その時、妖艶な人妻が立ち上がった。
そして、おもむろに告げる。
「トイレ!」
思わずカクリと首を垂れる三人。
そして、友人がしばし瞑目したあと、大きな声で言った。
「よし、
刺身盛り合わせ! お願いします」と。
なんだよ、それか。
我々のテーブルの上を「北海盆唄」が流れていく。
しかたない、わたしが話すしかない。
「あの、君は一人の時、洗濯は自分でしていたの?」
「一人暮らしの時は、そうです。洗って、乾かして、畳んでしまっていました」
「なら……」
言いかけたところで、妖艶な人妻が帰ってきた。
彼女は席に着く前に、男たちに密やかな声で話しかけてきた。
「大変、わたし今日、間違って……」
「旦那のパンツはいてきたのか!」友人がすかさず突っ込んだ。
「違うわよ、ボロパンツ穿いてきちゃった。見ないでね」と、なぜかくねくねと腰を振りながら座るのだった。
気を取り直して、わたしは静かに語り出した。
「ならさ、君が洗濯担当になればいいんだよ。彼女は洗濯が苦手なんだろう」
「え! わたしが、ですか」
「そう、あなたが洗濯して、干して、畳んで、しまえばいいのよ!」
妖艶な人妻が、鮭の刺身を口にしながら、少し強い口調で言う。
「俺は、ゴミ出し担当だ。月水金が燃えるゴミで、土曜日が資源ゴミの日だ」顔を赤くした友人が胸を張る。
「わたしは掃除担当だ。掃除機をかけて、簡単な拭き掃除をして、風呂の掃除もやる」と、わたしが言うと、妖艶な人妻が続けて
「わたしは、食べて寝る係ね」と。
「なんだ、それ、なにもしないのか?」と、わたしと友人が言えば、妖艶な人妻は
「この刺身、美味しいねえ」とはぐらかすのだった。
「まあ、結婚は第三種接近遭遇だからな」と、友人が薄い梅酒ワインソーダ割りを飲みながら、訳知り顔で宣う。
「なんすか、第三種接近遭遇って?」青年は戸惑う。
「未知との遭遇だよ。スピルバーグの映画。あ、君が生まれる前か、嫌だねえ。
異星人と出会う、って内容でさ。
第三種接近遭遇というのは、実際に異星人とコンタクトを取る、という意味さ」
「あ、その映画テレビで小さい頃見たような気がします。でも、結婚がなぜ、第三ナントカなんですか?」
「だから、異星人なんだよ、お互いになんだかわかんないだろ、なにするか。そんなもんさ、それまでの育ちも考え方も違う者同士が一緒になるんだから、少しずつ手探りしながら、着地点を決めていくのさ」
友人は遠くを見るように、天井を見上げ嘆息するのだった。
「生活していくんだから、ずっと。お互いに補い合えばいいのよ」
妖艶な人妻は男山吟醸を飲み干し、微笑んだ。
「そうだよ、わたしは北海道出身だからね、納豆の食べ方でかなり葛藤があったよ」
「納豆? なんで、葛藤するの。タレと芥子を混ぜて食べればいいじゃない」と妖艶な人妻があきれ顔で言う。
「そうだろ、そう思うだろ、でもな、北海道の多くは、砂糖醤油で納豆を食べるんだ」
わたしが言うと、三人は身を退いてしまった。
「シチューは、ごはんにかけるのか、問題はどうよ」妖艶な人妻が切り出す。
「シチューはカレーではありません!」わたしは力強く宣言する。
「なんで、途中までカレーじゃん。だからかけるの!」友人が返してくる。
「じゃ、決を採ります! かける派は?」妖艶な人妻が仕切る。友人と青年が手を挙げる。
「2対2の引き分けです! 次は千歳鶴、頂戴」妖艶な人妻が注文を出す。
腹も満たし、アルコールも適度に回り始めた頃、青年が時計を見ながら暇を告げた。
「そろそろ、帰ります。ありがとうございました。帰って、洗濯します」
青年の後ろ姿に手を振り、残った三人は顔を見合わせ、少し口角をあげて笑うのだった。
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