箪笥を開ければ 貴方に会える
「今度は、あっちのヨシコんとこ行きなさいね!」
確かに、祖母はそう言った。
嫁入り道具として持ってきた桐箪笥は、遺品を整理していた時、捨てた。
享年74歳。
若い頃には事故に遭い、輸血により肝炎を煩った。晩年は長らく癌と戦って、何度も生死の境目を彷徨ってきた祖父。
酒、タバコ、ギャンブル、女。
母や叔父から聞く祖父の話は、ろくでもない話ばかりだった。
だけど、最後はあまりにも静かで穏やかで、途切れることのなくなった心電図の音だけが、耳に残った。
だけど私は、私にとってのおじいちゃんが、大好きだった。
どんなに沢山の親戚が集まっている中でも、私のことが一番に可愛い、大事だと、酔っぱらった大声で言う。子供の面倒なんてみることもないのに、私が小さい頃には近所の公園に連れて行って、ジュースを買ってくれた。「俺が連れて行ってやった、ポカリスウェットを買ってやったんだ」と何度も自慢げに話していた。私が二十歳を過ぎてからは、一緒にお酒を飲めることを静かに喜んでいた。
お酒を飲まなければ、寡黙な人だった。いつも、決まった座椅子に座って、じっとテレビを見ていた。
「ねえぇ、なぁに、泣いてるの? そりゃあもう、おじいちゃん喜んでるだろうねぇ」
「そんなことより、まだ、帰れないのかしら?」
けらけらっ、と、笑いながら祖母が言う。
普段は、天然で、ちょっと変わり者の可愛いおばあちゃんなのだけど、その時ばかりは、笑えなかった。
「まだ、お医者さんがおじいちゃんの体を奇麗にしてくれているから、もうちょっと待って。そんなことより、悲しくないの?おじいちゃん、もう、死んじゃったんだよ」
手元にあるポカリスウェットのペットボトルに視線を落とし、熱くなる目頭をぎゅっと指で押した。
すると、祖母はあっけらかんとして、
「ぜーんぜん!」と答えたのだった。
お通夜の日になると、もう、私は遺影を見ただけで涙がこぼれ落ちてきた。いつもより薄く仕上げたお化粧顔も、式が始まる前にも関わらず、鏡の前では小さい頃から見続けてきた「ただの私」の顔に戻っていた。
悲しかった。悲しい、というだけの感情で、いっぱいいっぱいだった。
ふと、祖母の方を見た。
脚をぶらぶらさせて、どうにも暇そうにしている。こんな時なのに。
あきれた気持ちだった。
「父は、昔から誰にとっても良い人だったとは言えなかったかと思いますが……」
火葬前に、叔父が親族全員の前で挨拶をしていた。
そういえば、母も同じようなことを言っていた、本当に、父親としては最低だったって……。
棺の中には、祖父が大好きだったタバコを入れてあげようと、以前から話していた。祖母に、「タバコ、どこだっけ?」と聞こうと振り返ると、祖母は、ぐすんぐすんとハンカチを目に当てていた。じっと、見つめてしまった。
「やあだ。泣き真似よお」
彼女は、後からそう付け加えた。
***
危篤状態です、と病院に呼ばれた日から、そのまま数時間後には亡くなり、ばたばたと葬儀の準備など、慌ただしい数日が過ぎた。家に帰り、「お疲れさま」と、母と缶ビールを開けて飲む。そういえば、最近忙しくて、こうして家族とゆっくり話をするのもひさしぶりかもしれない。
あ、そういえば、と、気になっていたことを思い出した。
「ねえ、あっちのヨシコって、何だったの? ヨシコって、自分のことじゃん」
祖父が亡くなった後、祖母が言った言葉。
「今度は、あっちのヨシコんとこ行きなさいね!」
どういうことなのか、よくわからなかった。
祖母の名前は、ヨシコなのだ。
それなのに、あっちのヨシコって、何?
「ああ、昔の……浮気相手よ。ずっと、浮気してたんだけど、その女の名前もたまたまヨシコって名前だったの。本当に、ろくでもない父親だったよね……」
う、浮気だったのか……。
話には聞いていたけど、そんなこともあったんだ……。
「まあ本当に、最低だったけど、死んだ後にあんたにあれだけ泣いてもらえて、よかったわよ。そんな人、他にいなかったでしょ」
そっか。それなら、よかったのだけど。
沢山ある祖父の一面のなかで、ひとつ、「おじいちゃんとしての祖父」を私は引き出せたってことなのだろうか。
どんなに周りの人たちが悪く言おうと、そんな事実を知ったとしても、私が祖父を好きなことには、変わりはない。それが何よりもの、祖父の一面を確立させている証拠だ。
誰か、他の人との関わりの間では、人はどんな人にでもなれる。
誰かが、引き出してあげれば。みんな、本当は、沢山のものをしまい込んでいるだけじゃないのかな。
でも、そんな引き出しも、箪笥自体がなくなっちゃあ、もう誰も開けることはできないのだけど。だから、さみしいのか。誰かが死ぬと、悲しいのか。
引き出しを開けた時に、中にあったものは、私とあなただけしか知らない、お互いの大事な一面だから。そこを開けた時に出会えるあなたと、その時の私はそこにしかいなかったのだから。
「おばあちゃんの嫁入り道具の桐箪笥、やっぱりとっておいた方がよかったんじゃないかな」
いくつもの引き出しを持ち、そのどこかを開けてくれる人を待つ、まるで、箪笥のような人。
「もう中にしまうものもないんだから、とっておいたって、どうしようもないでしょ」
確かにね、と、目を細めた。
泣きはらした瞼は腫れていて、まだ、重かった。
***
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