メディアグランプリ

「ありがとう」と言えない魔法使い


記事:黒須 遊(ライティングゼミ)
言葉には魔力がある。
偉人の名言、友人のひと言、恋人のささやき。たった一語に過ぎなくても、触れた者の心に痕跡を刻み込む。

この世には魔法使いがたくさんいる。
彼らは言葉という魔法を自由自在に操って人々を惹きつける。政治家、コメンテーター、セールスマン、役者。
いや、別にそんな特別な職業じゃなくてもいい。話上手な職場の先輩や近所に住んでる賑やかなおばちゃんだって立派な魔法使いだと思う。
そう、誰にだって魔法使いになる素質はあるのだ。「自分の気持ちを相手に届けよう」とする意志さえあれば。

発症は高校生の時だった。
「いらっしゃいませ! 本日は当劇場にお越しくださいまして、誠にありがとうございます」
大好きな映画館で手元にある原稿を読み上げる。上映時間を館内放送で伝えるためだ。
バイトについて1年目の夏だった。
唐突に喉が詰まった。
「誠に」の後が続かない。「ありがとうございます」が言えない。
「あ」が口から出てこないのだ。
酸欠になった金魚のように口をパカパカ開けて、なんとか喉の奥から声を絞り出した。
「誠に……ぁりがとうございます」
とても不恰好な放送だったと思う。

それからだ。「ありがとう」という言葉が言えなくなったのは。
「ありがとう」だけではない。文頭に母音の「あいうえお」が付く語句が軒並み喉から出なくなった。
同僚の伊藤さんに声をかける時は名前を呼ぶのを避けた。
人の好意に触れた時は「助かりました」と言い換えた。
合気道の道場で挨拶する時は「ぁざっした!」と言ってごまかした。

吃音症(きつおんしょう)と言うらしい。もっとなじみのある言葉で言えば吃り(どもり)症だろうか。
原因はわからない。発症機序も不明だ。緊張しているから吃るんだ、と精神論が盛んに取り上げられていたのは昔の話で、今は脳の器質的な疾患なのではないかと言われている。
僕はごくごく軽度の吃音で済んでいるけれど、ひどい人になると日常生活もままならなくなるほどに言葉が口から出なくなる。

原因がはっきりしないから治療法も確立されていない。
対処療法しかないのだ。そもそも、症状が一定していない。こうして原稿を書いている今は普通に「ありがとう」と口に出して言える。
文頭に「助かりました」とつければ、「助かりました。ありがとうございます」と言える時もある。
映画【英国王のスピーチ】で言語聴覚士がアドバイスするように、歌だとなんでもない。
ただ一度つっかかってしまうとアウトで、無理をすると「あ、あっ、あ……あああありがとうございます」と言うハメに陥る。
僕の実践している対処法は簡単だ。自分の中で言いにくい言葉がはっきりしているから、その語句を避けるのが一番簡単で手っ取り早い。自分で思っているほど不自然でもない。事実、両親でさえ僕が吃音症であることに気付いていなかったくらいだ。
きっと僕のように吃る言葉を別の語に言い換えて吃音症を隠している人は他にも大勢いるのではないかと思う。

日常生活を送る上で支障はない。そんなに思い悩んだこともない。
しかし、ふと考えてしまう時がある。
「サンキュー」と言われるのと「ありがとう」と言われるのと、どちらが暖かい気持ちになるだろうか?
「助かりました」と声をかけられるのと「ありがとうございました」とゆっくり言われるのと、どちらが心に響くだろうか?

「ありがとう」という言葉に込められた魔力は他のどんな言葉よりも強い。
そんな気がしてならないのだ。

KOKIAという日本の歌手がいる。
僕が好きなシンガーソングライターだ。彼女の代表曲の一つに「ありがとう…」という曲がある。

なぜこの曲が代表曲になっているのか? なぜYouTubeで150万回近く再生されているのか?
多くの人が共感したからだ。
あなたが心を寄せる誰か。今はもう会えないその人に、もしもう一度会えたとしたらその時伝えたい言葉。

ありがとう。

そう、このたった5文字の言葉に内包される思いは膨大だ。
だからこそ悔しい。
「ありがとう」。たったこれだけ。このたった5文字の言葉さえ口に出せないことが悔しくてたまらない。

だから僕はペンを執る。
声に出して伝えられない気持ちを文字に起こして届けるために。

そうだ。言葉という魔法を発動させる方法は一つじゃない。こうして紙面を通じて語りかけることで、遠く離れた誰かにだって思いを伝えられる時代に僕は今生きている。
そのことに感謝しよう。
いつか、また小説を書いてみたい。
大学生の頃入っていた文芸部で何気なく物語を綴っていた日々は、何も変化はなかったけれどとても優しい時間だった。
僕には言えない言葉をキャラクターに代弁させる時、きっと僕の口も動いていたはずだ。

ありがとう、と。

 

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2016-07-01 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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