後は、クロエの女とよろしくやってくれ
波の音が心地よい。全てを忘れたい私の体に、波の音はゆっくりと染みわたる。たまにふと、海に帰りたくなるのは、生命の始まりが海だからだろうか。私は人魚のような気分になる。リトル・マーメイドも、パイレーツ・オブ・カリビアンに出てくる人魚にも、エラはなかった気がする。海の中で穏やかに体をよじり、空の鳥のように海の中で自由に泳ぎ回る彼女たちは、息継ぎをするために水面に顔を出すのだろうか。それとも、エラがなくとも、鼻呼吸で酸素を取り入れるのだろうか。
月に帰りたいと思ったこともあった。かぐや姫の様に私は月から来ているのではないかと、柄にもなく感傷に浸ったりする。満月の時、私はとてつもなく懐かしい気持ちになり、月が帰ってこいと言っているような気がする。吸い込まれるように、月のクレーターが見えてしまうこともある。でも、月は遠くからしか見ることができない。触れることができない。帰る方法が分からない。だから私はやはり海に帰ってくる。
夕日が沈むのを、一人で見ることができずに、私はとりあえず、その日海に一緒に行ってくれる男を探した。他意はない。ただ、一人でいることが嫌だったから呼んだだけの男。それにしても、その包容力たるや。何も語らない私に、あれこれ詮索しようとせず、ただ車を走らせてくれる彼は、本当に大人だと思う。きっと何かあったのだろうと思っているはずなのに、それでも彼は私から話すのを根気強く待ってくれるのだろう。そして、私の「一人でいたくない」という、ただそれだけの行動にも関わらず、彼はどこにでも連れてってくれる。いいんだよそんなに優しくしなくても。歳が上だとか、男だからとか、そんなこと考えなくていいんだよ。支払いだって割り勘でいいんだよ。むしろ、「やっぱり男なんて……」そう思わせてくれればいいのに。
その日私は、付き合っていた彼と別れてきた。彼が浮気をしているのは、前から分かっていた。薄々、そうなのだろうと思っていたが、それでもなかなか別れを切り出せなかったのは、やはり「彼に」愛して欲しかったからなのだろう。それに、決定打がないまま、子供の様に怒り、責め立てることだけはしたくなかった。私の女としてのプライドが勝っていたからだ。いつでも強くありたい、たとえ浮気をされていたとしても、何事もないように「あぁ、そう。じゃあ、さようなら」と一言だけ言って終わりたかった。知らないなら、知らないままでいたかった。分からないように、浮気をしてくれていればとも思った。それでも、無駄に頭の良い私は、矛盾に気付いてしまう。そして、どうにかして、私に自分の存在を気付かせようとする浮気相手の地道なローキックに、私は少し心が折れそうになる。助手席のシートの位置が微妙に変わる。キッチンの調味料の位置が違う。枕に残る、クロエの香水の匂い。ピアスの片割れ。ピアスなんて、そんな簡単に外れんだろうに……。
半年経って、やっと別れる決心がついた。「彼に」愛されたいという気持ちがやっと薄らいだのと、ローキックがボディーブローに変わりつつある攻撃に、防御の態勢をとることもあほらしく思えてきたからだ。二人の女を同時に抱く男にも、生理的に気持ち悪さを感じていた。
いざ、別れを切り出すと、なぜ男はあんなに狼狽えるのだろう。
「お前じゃなきゃ」「俺を置いていかないでくれ」
そんな臭いセリフをツラツラと並べながら、あの男は何を考えていたのだろう。最後まで浮気相手の存在には触れなかったが、ややもすれば泣き出しそうな男に、もはや情も何も沸かなかった。「ああ、そう。じゃあ、さようなら」と理想通りの別れ方をした私は、全ての思い出をその男の部屋に置いてきた。後は、クロエの女とよろしくやってくれ。
海は相変わらず、穏やかな波音を立てている。周期的な波の打ち寄せに、砂がどんどんさらわれていく。きっと私の思い出も、海はああやってさらっていってくれるだろう。横に座る男は何を考えているんだろうか。ただ、海に連れて行ってくれと言った、この小娘に何を思っているのだろうか。綺麗な横顔。きっと女なら誰もがイケメンだと評する顔をしている。
きっと、人魚に見初められる男だ。人間になる代わりに、声を失ってでも人魚はこの男の横顔を見たいと思うだろう。そしてキスをするんじゃないか。
なんとなく、抱かれてみたくなる。人魚は、息継ぎをするために水面に顔を出したんだろうか。確かそこで、嵐に飲まれた王子に恋をしたんだったか。そして、人工呼吸という名のキスをしたんだったか? いや、人間になってからキスをしたのか? それにしても、エラがないから、やはり息継ぎをする為に、人魚は水面に顔を出したのだろう。
「ねぇ、王子」
「あぁ?」
「とりあえず、今日私を抱いてくれんかな?」
べしっと頭をはたかれた。この男らしい。「やっぱり男なんて……」そんなこと決して思わせないヤツ。
海に帰りたくなるのは、生命の始まりが海だからだろうか。そして海に帰った私は、人魚の様に、また恋をするのだろうか。だがしかし、人間になる為に、声は失いたくないなぁ……。だって、自分の声で王子に伝えたいじゃない。「好き」って。
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