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覚悟なんて、今の自分がするものじゃないから



記事:Yushi Akimoto(ライティング・ゼミ)

日本の著名な小説家である江國香織の作品の中に、『号泣する準備はできていた』という短編集がある。直木賞を受賞したこの本は、その中に収められたある短編の表題から名付けられた。僕はこの不思議なタイトルに言い表しがたい魅力を感じてこの本を手に取ってみたのだが、読み終わった後も、その意味がよくわからないでいた。まだ大学生だったころの話だ。

30歳を間近に控えた今もなお、このタイトルの意味するところの説明を試みるというのはいささか躊躇がある。「号泣する準備はできていた」という文字列の、周到に組み立てられた微妙なニュアンスを損なうことなく言葉という道具を使いこなす技術と感性を身に付けるための時間と経験がもう少し欲しいところだ。

しかし、そんな僕でも一つだけ言えることがある。「号泣する準備」に、意志を持って予め取り掛かるなんてことはできない、ということだ。人生の大事な選択を迫られる場面が、だいたいにおいてそうであるように。
海士町(あまちょう)という島がある。2010年の秋に、僕は当時勤めていたIT企業を辞めて、日本海に浮かぶその離島へ移住した。24歳になる少し前のことだった。退職した日のことは今でも印象に残っている。当日、18時まで引継ぎ業務を続けてからようやくデスクの片付けに着手し、20時前になってビルのエントランスのセキュリティゲートを出た。Twitterに「退職なう」と一言呟くと、「退職おめでとう!」のリプライの嵐。送別会では上司に「お前を次のエースと思っていたのに」と言われ、そういうセリフはもっと早く言うべきだと思った。メンターとして図らずも厳しく接し続けた後輩が、部署を代表して退職祝のPS3を手渡してくれた。「島暮らしは寂しいでしょうから、島で友だちをつくってこれで遊んでください」と。

「島に移住するなんてすごいですね!」とはよく言われる。その後には括弧つきで「ワタシにはとても無理だ」という一文が続くのも承知している。客観的な判断としては実に正しい。実際、海士町に行くデメリットは幾らでも挙げることができた。

「本土からフェリーで約3時間半かかり、しかも島根は他県からのアクセスも悪い。気軽に遊びに行ったり友人に会いに行ったりすることはできなくなる」
「家賃相場はかなり安いとはいえ、日系企業ではトップクラスの初任給だったときと比べて収入は半分以下になり、ボーナスもない。将来に向けた貯金をするには心もとない」
「離島であるがゆえに自分の地元よりも濃密なコミュニティがあり、人間関係が煩わしく感じられたり、地域行事等への参加が負担になったりする恐れがある」
「島で充実した働き方と暮らしが実現できたとしても、将来的に自分の望む方向に進むことができる保証はない。少なくとも転職市場において有利になるキャリアチェンジではない」
「将来、地元の秋田に戻るのに、秋田からより離れたところに身を置いてよいのか。さっさと秋田に帰った方がいいのではないか」
「少子高齢化著しい離島なんかにいったら、ますます恋愛や結婚のチャンスが減るのではないか。同年代の友人ができるかどうかもわからない」

それでも、僕から言わせれば、あの状況、あのタイミングで、海士町に行かないという選択をする方が、よっぽど「ワタシにはとても無理だ」った。海士町への移住を決断するまでに要した時間は、だいたい1時間くらいだったと思う。Twitterで海士町の公立塾の求人を見つけたそのときには、もう、すでに、決断する準備はできていたのだ。

「ちょうど担当していたプロジェクトが一段落したタイミングだったから」
「学生時代に海士町を一度訪れたことがあり、島での暮らしや働き方を多少でも想像することができたから」
「海士町での仕事が、中学のころからずっと関心を持っていた教育の分野であり、かつ、職場が県立高校と連携した公立の塾という当時ほとんど事例がないチャレンジングな環境だったから」
「将来、地元である秋田に戻ることを考えたときに、地方の先進事例を現場で学ぶことが良い経験になると思ったから」
「恋人がいなかったから」

振り返ってみると、海士町へ移住することで得られるものは、その当時の自分の関心事や問題意識と奇妙なくらいに合致していた。僕には、海士町へ移住するだけの理由がすでにあったのだ。しかし、それらは「海士町へ移住するために」予め準備をし、仕込んでいたものではもちろんない。僕は僕なりに「将来は秋田に戻る」という漠然とした目標の中で、自分の興味関心を自分勝手に育んでいただけだ。それが、日本海を渡るために必要最低限の条件をクリアすることにたまたまつながった。そう、たまたま、なのだと思う。

僕が身軽であったのも、決断しやすい理由の一つだったと思う。『アポロ13』でも『ゼロ・グラビティ』でも『オデッセイ』でも、大事な教訓は「緊急時には不要なものは可能な限り捨てろ」だ。海士町に行くことで失われるものは確かに多い。しかし、海士町に行かないという選択の結果失うものもまた多いのだ。そのどちらが自分にとって重要なのだろうか? 自分が実は強く望んでいないものをたくさん抱えていると、いざというときに身動きができなくなってしまうかもしれない。幸い、僕は余計なものをほとんど持っていなかった。

J.D.クランボルツ教授の「プランドハプンスタンス理論」によれば、人のキャリアの8割は偶然の機会によって決まるという。確かに、島の魅力的な求人との出会いは、唐突で、予測不可能だった。事前に準備することももちろんできなかった。しかし、日ごろから自分の感性を磨き上げ、自分が望むものとそれほど望まないものとを明確にしておくことで、「たまたま」を「チャンス」に変えることができる。人生の大事な場面では、結局、普段の自分の過ごし方、時間の使い方が問われるのだ。

こうした観点で見たとき、他人から見たら大きな決断でも、当の本人にとってはほとんど必然的な、そうせざるを得ない選択である、ということが起こりうるのだと思っている。「すごい覚悟ですね」という言葉は、だから時に的外れになってしまう。そういう人ほど、実は決断ができない、自分に覚悟が足りないことを悩んでいるのかもしれないが、それならば逆に、こう自分に問うてみたらどうだろう。今、唐突に、自分の目の前に「偶然」が舞い込んだとしたら、それを「機会」に変える準備はできているだろうか、と。

 

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2016-07-02 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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