メディアグランプリ

あぁもう出ていって、二度と戻ってこないで。永遠にさようなら!


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記事:斧田 唄雨(ライティング・ゼミ)

あんなに振り回しておいて、出ていくときはほんとうに素っ気ないのね。
ありがとう、どころか、ごめんなさい、もなく。
私は汗まみれのまま、ぺたりとフローリングに座り込み、しばらく呆けた。
あの男の声が鼓膜を蹂躙し続けている。
まだそばにいるような錯覚に陥って、涙が滲んだ。

そうね、悪いのは全部私。
忙しい毎日にかまけて、隙を作った私の方が悪かったの。
8月の、昼下がりのこと。すごく暑くていい天気だった。
ベランダに出て洗濯物を干していると突然、あの男がやってきた。
聞き覚えのある声。また来たの。困惑する私を前に、にやにや顔で両手を擦り合わせる仕草、虫酸が走った。
それでも部屋に招き入れてしまったときはまだ、すぐに出ていくものだと思っていたの。
だって、私なんて冴えない地味なOLよ。料理だって全然上手じゃないし。
あの男がやってきたときもグレーのタンクトップにショートパンツで、そんな生活感丸出しの女に何の価値があるっていうの。
男の目がぎょろりとこっちを見つめている。
私の顔を、首筋を、鎖骨を、肩を、腕を、胸を。
いやしい視線を無視してキッチンに立つと、お構い無しに男は脚に触れてきた。むず痒い感触に思わず男を振り払う。
私の抵抗に彼は一瞬怯んだが、上機嫌で鼻歌を歌いながら体毛の濃い手で何度もからだに触れてきた。
あぁ、気持ちが悪い。
私はまたもこの男に振り回され、弄ばれるのか。服の隙間に入り込んだ男の手に、寒気を覚える。今ごろ後悔したって遅い。
まずい、この男を招き入れるべきではなかった。

私の部屋に居座り始めた男は、夜になるほど元気になった。
昼間のうちはどこにいるかわからないのに、夜、私がご飯を食べているとき、テレビを見ているとき、お風呂上がりにパックをしているとき、必ずそばにやってきて耳元で囁くのだ。
“ねぇ、こっちを見てよ”
“俺を見てよ”
囁きながら腕や肩に触れてくる。
男に触れられるのは不快でしかなかった。鳥肌が立って、むずむずと痒くて。
あの男に触れられて、何度もからだを洗った。今まで汚いものに触れてきた手で私に触らないでほしかった。
寝室に入って寝ていてもいつのまにか男はベッドに潜り込んでくる。
一晩中止まない囁きと愛撫。
“さっきからずっと携帯ばかり気にしてるけど、誰とメールしてるの?”
“ねぇねぇ、もう寝るの?”
“君のからだ、やわらかくてあったかいね”
うるさい、……うるさいうるさいうるさい!

私は日増しに疲弊していった。

あいつを殺そう――思考がそこまで至るのに、そう時間はかからなかった。
撲殺がいいかな。それとも、毒殺かな。毒殺の方が手間はかからない。けれど、狭い賃貸アパートで毒ガスを部屋に撒き散らすのはあまり得策とは思えなかった。
私は撲殺を選ぶ。飛び散った臓物を片付けることを思うと少し億劫だけど、無惨な死に様を目にすればあの男がやってきて以来積もりに積もったストレスも一気に解消できるに違いない。

決行の日。
凶器は近くのホームセンターで手に入れた。どきどきとうるさい心臓を必死になだめて、足音を立てないように近づく。
あの男は勘が鋭い。
のんきに鼻歌を奏でる男の背後から、凶器を構えて襲いかかった。
なんと俊敏な動きだろう! 彼はするりと身をかわす。
余裕のある態度にむしろ腹が立つ。私は何度も凶器を振り回し、そのたびに彼はそれをかわした。
頭がおかしくなりそうだ。私は泣きながら叫ぶ。
「ねぇ、出ていってよぉ!」
もしくはおとなしく死んで!
私に殺されて!
「これ以上、私を振り回さないで!」
それでも彼は飄々と私の攻撃を避け、嘲笑うかのように歌い続ける。
“君はどんくさいね”
“どんくさくて、かわいいね”
俊敏な動きに対して意思の読めない瞳。
あなたは一体、私をどうしたいの。教えてよ、ねぇ。
敵わない、と悟った。私ではあいつを殺せない。

しかし、終わりの日はあまりに呆気なく、突然訪れる。
眩しい光に惹かれて、男は自ら出ていった。
奇妙な同居生活に疲れきった私は、部屋の灯りを消し、蒸し暑い部屋でじっと膝を抱えて男の囁きに耐えていた。
ここ1週間でひどく痩せた気がする。
ふ、と一瞬の風が吹き、彼は音もなく去った。
彼がやってきたのと同じ、日曜日の昼下がり。レースのカーテンが風に吹かれて、私を慰めるようにやさしく揺れていた。
あんなに私を振り回しておいて、別れの言葉はなかった。
私も彼を見送らない。ただただ、疲れきっていた。
殺したいと思うほどに憎らしかったのに、去ってしまえば虚しさだけが残った。
きっとあの日々は悪い夢だったのね。汗に濡れたからだが覚えている、指の感触もすべて。

耳の奥にあの男の羽音。
“また来るね”
“楽しかったよ”
ぶうんぶうん、と意思のないノイズに、私はいやらしい声を聞く。
無造作に立て掛けていたハエ叩きが風で倒れた。
私は乱暴に窓を閉める。
もう二度とあいつを招き入れないよう、隙のない私でいようと思う。

さようなら、ハエ。
1週間奇妙な同居生活を送った、愛しくもなんともない、ただの虫。
 

***
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2016-07-08 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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